豊田利晃監督の系譜から考える『次元を超える』の真価 その“頂”にあるのは絶望か希望か

日本映画界きっての鬼才・豊田利晃監督。これまでさまざまなジャンルに手を伸ばし、とくに観る者の脳髄を突き刺すような、刺激的な作風で知られている、“映画作家”である。
この度公開される一作は、そんな豊田監督が、「最後になってもいい気がするくらいの作品ができた」とコメントしているだけあって、彼の作風やメッセージが、最も“純化”されたかたちとなった一作と言っていいかもしれない。そのタイトルとは、『次元を超える』。文字通り、観客の意識を別の世界までトリップさせる内容となっているのだ。
ここでは、そんな本作『次元を超える』の内容に触れながら、これまでの豊田作品とのリンクや、特異な表現を積み上げてきた集大成に至るテーマ性、そして、なぜ「最後の作品」などという言葉が飛び出したのかを考えていきたい。
W主演で二人の主人公を演じるのは、窪塚洋介と松田龍平。豊田監督の『破壊の日』(2020年)でも共演した二人が、新たに対峙し、スクリーン上でぶつかり合うことになる。豊田演出のリフレインといえる、松田龍平の歩行シーンのスローモーションや、『沈黙ーサイレンスー』における、卑俗さと敬虔さのなかで神のもとへと近づいていく人物を演じたことを彷彿とさせる、窪塚洋介の存在感が味わえるのだ。
松田龍平が演じるのは、『I'M FLASH!』(2012年)や『破壊の日』の登場人物と同名のキャラクターである、暗殺者・新野風。彼は、謎めいた女性・野々花(芋生悠)から、ある人物の捜索を依頼される。それが、「阿闍梨(あじゃり)」と呼ばれている破戒僧の家で行方不明となったという、孤高の修行者・山中狼介だ。
新野風の前に立ち塞がる阿闍梨を演じ、全編にわたりインパクトを発揮するのは、千原ジュニアだ。かつて、その尖った態度や雰囲気から、芸人の間で「ジャックナイフ」と呼ばれていたジュニア。豊田監督の『ポルノスター』(1998年)で主演を果たし、実際にナイフを持ち歩いてヤクザを躊躇なく刺し殺すという、危険きわまりない役柄を演じていた。
本作の阿闍梨役では、神仏を頼ってきた信徒の目の前に刃を備えた切断器を用意させ、「指を切れ」と言い放つなど、今度はまるでヤクザのような宗教家を演じているのである。日本で阿闍梨といえば、密教系の仏教における指導的立場を指すが、この人物はそんな権力や“呪法”を悪用し、傍若無人に振る舞うのである。そういった際どい表現は、鑑賞中に絶えず緊張感を漂わせる豊田作品の真骨頂といえよう。
この阿闍梨は、仏教や神道、陰陽道、「狼信仰」を含んだ山岳信仰などが混ざった「修験道」のもとで修行を経た僧侶であることが示唆される。修験道とは、厳しい山岳での修行を通じて、現世で悟りを拓くことを目的とし、自分や他人を救うはずの存在といえる。そんな立場の者が“衆生”を苦しめることは、基本的にあってはならないはずだ。
とはいえ、豊田監督が本作について、「次元を超えた視点に辿り着くために、この映画を作らねばならぬと思った」と述べているように、本作の阿闍梨は、私利私欲を肥やそうとしているというよりは、あえて非人間的な方向に突っ走ることで、人間界の善悪を超越した者になろうとする途上であると描かれているように感じられる。
悟りに近づくために身体を欠損させていくというアブノーマルな考えは、おそらく修験道の伝統にはなく、脚本、プロデュースも担当する豊田監督のオリジナルだと考えられるが、自身をも犠牲にしようとするという意味では、『破壊の日』でも題材にされた「即身成仏」の考えを連想させるものがある。これは日本の密教にて発展し、過去におこなわれていた独特の思想で、生身のまま仏(即身仏)になろうとするというもの。輪廻転生を経ずに現世で仏の境地を体得することを望むという意味では、修験道や山岳信仰ともやはり結びついている。
『破壊の日』含め、近年の豊田作品に登場する「狼蘇り信仰」の象徴となるのが、「狼信仰」を背景とする「狼蘇山」と呼ばれる架空の神社だ。これが登場する豊田監督作品『狼煙が呼ぶ』(2019年)、『破壊の日』、『全員切腹』(2021年)は現在、「狼蘇山三部作」と位置付けられている。本作『次元を超える』は、その新章という位置付けであり、集大成でもあるのだろう。
























