『ブラック・ショーマン』にみる福山雅治のスター性 有村架純との見事なバランス感覚

『ブラック・ショーマン』福山雅治のスター性

 福山雅治という存在は、日本のポップカルチャー史において特別な輝きを放ってきた。ある芸人がかつて「日本の女性は福山雅治に支配されている」と冗談めかして語ったというエピソードがあるが、それは必ずしも誇張ではない。俳優、シンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。どのフィールドにおいてもトップランナーであり続けるその姿は、もはや一個人の域を超えて国民的スターという記号にまで昇華している。最新作『ブラック・ショーマン』は、その記号性がいかにして映画的効果を生むのかをまざまざと示す作品となった。

 原作は東野圭吾による同名小説。コロナ禍で観光客が途絶えた町で、元教師・神尾英一(仲村トオル)が殺害される。訃報を受け帰郷した娘・真世(有村架純)の前に現れるのが、かつてラスベガスで活躍した元マジシャンの叔父・武史(福山雅治)。卓越したマジックと観察眼を武器に、2人は事件の真相に迫っていく。

 東野といえば、累計発行部数1億超を誇る国民的ミステリー作家。その代表作『ガリレオ』シリーズは、2007年に福山主演でドラマ化され大ヒットし、劇場版も『容疑者Xの献身』(2008年)、『真夏の方程式』(2013年)、『沈黙のパレード』(2022年)と、3作連続で興行を成功させてきた。『ブラック・ショーマン』は、その系譜に連なる新たな「福山×東野ワールド」である。

 同じ福山雅治でも、今回の役柄は物理学者ではなくマジシャン。科学的実証から手品的トリックへと、知のアプローチが変化した。とはいえ、謎を解き明かすプロセスが観客を魅了する点に変わりはない。むしろ、小難しい方程式や物理学より、手品のほうがよっぽど映像表現と親和性が高い。そもそも映画自体が、虚構をスクリーンに投射して現実のように錯覚させるメディアなのだから。

 福山が仕掛ける推理のプロセスは、まるで舞台の上でトランプを操るように鮮やかで、観客は思わず息を呑む。推理小説的な知的快楽と、マジック的な視覚的快楽が交錯する瞬間、本作はジャンルの枠を超えて「映画でしか成立しえない表現」へと到達する。この構造において、福山雅治という俳優は確かに適役だろう。彼自身が持つカリスマ性、ミステリアスな雰囲気、そして一挙手一投足に観客を引きつけるスター性は、マジシャンという職能と自然に重なる。

 本作でより興味深いのは、福山が演じるマジシャン像が、もはや「福山雅治そのもの」であるという事実だ。福山がスクリーンに登場するだけで、観客は「スター俳優・福山雅治が何かを解き明かす」という前提を自動的に受け入れてしまう。つまり、彼の存在そのものが映画の演出に加担している。役柄を超えて、福山は「福山雅治であること」自体を演じているように見えるのだ。

 これは決して批判ではない。むしろ俳優がスターに昇華するとは、かつての高倉健や吉永小百合がそうであったように、個人を超えた記号となることを意味する。福山雅治もまた、数少ない記号的スターのひとり。本作の彼は、まるで「福山雅治が福山雅治のモノマネをしている」かのような福山雅治っぷりを発揮し、それこそが映画の魅力の核になっている。

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