『愛の、がっこう。』が視聴者にとっても“愛”を学ぶ場に 愛実とカヲルの幸せを願って

『愛の、がっこう。』(フジテレビ系)を観ながら、私たちはどこで「愛」を学んでいるのだろうかと考えてしまった。きっと人が生きていく上で、最も必要なものとして挙げられるのが「愛」。しかし、それをちゃんと学ぶ場というものは明確に設けられてはいない。
「愛」を教科として扱うことは難しい。それゆえ多くのことを学ぶ場である「学校」でも、なかなか「愛」についてじっくりと考えるというのも簡単なことではなさそうだ。だからこそ、この作品そのものが多くの視聴者にとっての“愛のがっこう”となっているのかもしれない。
ここまでの8話で、本作は登場人物の数だけ様々な「愛」の形を描いてきた。中心となっているのは、厳格な女子校の教師である愛実(木村文乃)とホストであるカヲル(ラウール)の愛。とはいえ、そこにあるのは激しく惹かれ合う男女の恋愛というよりは、お互いを尊重し、心から安らげる慈愛に似たもの。これまで2人が欲しくても得られなかった「愛」にも見えた。

愛実にとって「愛」は、「諦めないこと」で得られるものだったのではないか。その理由は前時代的な価値観を持つ父・誠治(酒向芳)の存在だ。父が敷いたレールに沿って生きる。それこそが、自分が愛されるための条件のように捉えていたように見えた。
とはいえ、ここまで見てきた限り愛実はかなり不器用なタイプだ。きっと誠治が納得する「娘である自分」になるために、かなりの努力を必要としてきたのではと想像する。多少うまくいかないのは、いつものこと。だからといって諦めていたら「愛される価値がない自分」になってしまう。
しがみついて、くらいついて、はじめて手にすることができる。それが愛実にとっての「愛」だとしたら、その思考の癖によって元恋人との別れが受け入れられず、事件を起こすまで暴走してしまったことも頷ける。
もちろん、なにかと高圧的に愛実の人生に口出しをする誠治が、彼女の幸せを願っていることに偽りはない。愛する我が子にこそ苦労しないようにと、自身の知見をもとに道しるべを示したくなるのは、親として多くの人が共感するところ。

しかし、過度な干渉は親のエゴ。「かわいい子には旅をさせよ」と昔から言われるのは、それが親にとって容易ではないからだ。子の意志を尊重し、その力を信じ、手を離す。それはむしろ親のほうに勇気が求められる行為なのだろう。
愛するがゆえに、相手が自分の思い通りになることを望んでしまう。「お前のためだ」と言い聞かせたくなるときほど、「愛」と「エゴ」が取り違えられているときかもしれない。「無償の愛」と言われることの多い、親子の間でさえそのようなすれ違いが起こるのだから、他人同士が愛し合うことの難しさを再認識させられる。

もしかすると「愛」とは、自分の思いばかり押し付けたり、わかってほしいと追いかけたりするほど、見えなくなるものなのかもしれない。「満たされる」先が自分に向かっているから、本人は「愛」のつもりでも「ストーカー」や「ハラスメント」になってしまう。
相手の幸せを心底願う。それが叶うなら自分が満たされなくてもかまわない。そんな痛みを引き受ける覚悟こそが、本質的な「愛」なのではないか。それを見せてくれたのは、学校に通うことが叶わなかったカヲルだったというのも、なんとも象徴的だ。






















