成馬零一『坂元裕二論』はファン必携の書 『片思い世界』に至る約40年のキャリアを総括

成馬零一『坂元裕二論』はファン必携の書

 成馬零一氏の『坂元裕二論』(blueprint)が刊行された。岡室美奈子氏と並んで、テレビドラマへの深い歴史意識の基盤を軸に豊かな批評活動を実践してきた著者にしか書けない、渾身の論考である。これまでにも「リアルサウンド」や『ユリイカ』(青土社)などの各種媒体で断片的にその論旨を見る機会はあったが、こうして一冊の書籍として集成されたときに与える印象は爽快だ。本書は作家論としての細部への目配せを超えて、各作品の発表年代の分析にも紙幅を割きながら具体的なスタッフ/プロデューサー、あるいは他のコンテンツへの心憎い参照を施すことによってこの稀代の作家への重層的な理解を促していく。今後、〈坂元裕二〉を論じる際には必携の書物となるだろう。

『東京ラブストーリー』から『片思い世界』まで 成馬零一『坂元裕二論 未来に生きる私たちへの手紙』刊行へ

ドラマ評論家・成馬零一による新刊『坂元裕二論 未来に生きる私たちへの手紙』が、2025年9月2日に株式会社blueprintより…

 本書は、坂元の活動を4つの時期に分けている。1987年〜1996年までの初期、数年の雌伏を経て巧みな「ストーリーテラー」として活躍した2002年〜2009年、『Mother』(2010年/日本テレビ系)以降『anone』(2018年/日本テレビ系)に至るまでの「作家性の確立」を達成した約10年、そして映画に軸足を移した現在。大まかなキャリアの変遷をあらかじめ提示した上で具体的な作品の分析に入ってゆくから途中で論旨の森に迷う心配がない。安心だ。坂元の作品といえば、『東京ラブストーリー』(1991年/フジテレビ系)を別とすれば、硬派なテーマとそれを打ち消すかのように巧みな日常会話の奇妙な融合『それでも、生きてゆく』(2011年/フジテレビ系)、コミカルな対話の応酬が気づけば後戻りのできない破綻に至る『最高の離婚』(2013年/フジテレビ系)、MeToo運動を連想させる先駆的な『問題のあるレストラン』(2015年/フジテレビ系)そしてX(旧Twitter)でその台詞回しが話題を呼んだ『カルテット』(2017年/TBS系)など得てして2010年代の作品が論じられがちだ。

 しかし、成馬氏の筆致はこの奇跡のように思われる10年間だけを特権視するのではなく、これら一群の作品の影に埋もれがちな他の時期の物語も丁寧に見つめ直してゆく。そのなかでテレビドラマの脚本から一時的に離れていた坂元の関わったゲーム作品『リアルサウンド 〜風のリグレット〜』(1997年)が意外な「坂元らしさ」を湛えているというのも本書のユニークな指摘である。また作品の描写・分析だけでなく関係者のメモワールや同時代の証言を駆使しながら、それが放送可能となった具体的な文脈や受容の把握もさりげなく行なっている点は見逃せない。名著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』(PLANETS)の著者である成馬氏ならではの、極めて正統的な、しかしテレビドラマをひとつの歴史として捉え直してゆく際には必須と思われるこうした作業が本書に豊かな射程を与えた。テレビドラマが社会の街路を映し出す雄弁な鏡であることを読者は自ずと理解されるだろう。

 この坂元裕二論の特徴は、「手紙」の主題に基づいて坂元作品を捉え直していることである。「他者と手紙」というのが本書に流れる通奏低音であると言ってもよい。つまり、坂元作品のなかには理解を隔絶した他者が常に存在する。この他者といかに七転八倒しながら関わってゆくか、理解してゆくかを究道的に問うのが物語を動かす坂元最大のドラマツルギーというわけだ。その他者との交流の痕跡が手紙なのである。だから他者との交流が時に儚く虚しくやるせなく不守備に分かり合えぬまま断絶して終わってしまうように、坂元の手紙は宛先へと届かない。届かなかった手紙はただ視聴者の前にだけ残り、私たちは感情がすれ違っていたことを辛くも傍観するばかりだ。たしかに近年の坂元作品では手紙が届くこともないわけではない。だがそれは本書の言葉を引用すれば「手紙に遺書としての側面が強くなってきたことで『死者の想い』を生きている者がどう受け止めるべきか? というテーマが彼の中で年々、大きくなっているから」である。『anone』や短編『水本さん』(2017年)など坂元は死者をドラマに登場させることが多々あるが、ここにも彼の「他者」という重要な主題が仄見えているのだ。

 この「他者」の主題化に対して、成馬氏の眼差しは冷静である。単にそれが扱われているというだけでは納得しない。とりわけ近年の最大の達成『片思い世界』(2025年)には「『自分は他者と向き合っている』という作家としてのアリバイ作りのためだけに」作られた作劇があるのではないかと手厳しい。同様の見方をとるかどうかは読者の自由だろう。時に氏の批判はその愛に比例するかのように強く、いささか論旨を逸脱しかけた箇所も散見されないではない。だが、坂元裕二というひとつの「他者」に正面から臆することなくぶつかり、その一作品一作品と対話しながら生み出されたこの論考は、それ自体が「他者」の問題を充分に主題化した書物だと言える。本書『坂元裕二論 未来に生きる私たちへの手紙』は極めてコンパクトに纏められながら、そこに必要な情報を過不足なく盛り込みつつ、彼の作品といかに向き合うべきかをめぐって指標となる方法論を私たちに提示してくれた。これは以後さらに精密に論じられ、語られていくだろういくつもの坂元裕二論のための、それ自体未来に宛てられた一葉の手紙なのである。

■書籍情報
『坂元裕二論 未来に生きる私たちへの手紙』
著者:成馬零一
発売中
価格:2,750円(税込)
判型:ソフトカバー/四六判
頁数:240頁
ISBN:978-4-909852-61-8
出版社:株式会社blueprint
blueprint book store:https://blueprintbookstore.com/items/689054fb3ee3fdd97c2a8fe0

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