『ジュラシック・ワールド/復活の大地』は何を再生しようとしたのか 前シリーズとの違い

思えば、『ジュラシック』シリーズは“映画史に残る傑作”と呼ばれる第1作を除いて、ほとんどの作品が賛否両論だった。そういう意味で、『ジュラシック・ワールド/復活の大地』はとても“ジュラシック映画らしい”作品である。
特にシリーズ最終作として作られたのにイナゴ問題で大荒れした『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』が映画評論サイト「Rotten Tomatoes」によると批評家スコア29%なのに対し、観客スコアは77%、そして何を隠そう最新作『ジュラシック・ワールド/復活の大地』も批評家スコアが51%なのに対し、観客スコアは71%とかなり評価が割れた作品なのである。しかし個人的に興味深いのはこの2作、対極にあると言っていいほど正反対の映画なのだ。評価が割れるポイントになり得るコリン・トレボロウとギャレス・エドワーズ&デヴィッド・コープのタッグのアプローチの違いに目を向けながら、『復活の大地』が何を再生しようとしたのか考えたい。
※本稿には『ジュラシック・ワールド/復活の大地』のネタバレが含まれています。
人物描写の違い

『復活の大地』においてよく耳にするのは、序盤の人間パートが冗長であるという意見だ。今作において最も挑戦的なポイントの一つとして挙げられるのは、『ジュラシック・ワールド』と名を冠しながらも、確かにコープは脚本を書くうえでキャラクターを描くことに注力している。そしてその行いは、トレボロウが前シリーズで手放してしまったことなのだ。
『ジュラシック・ワールド』で強い印象を残したクリス・プラット演じるオーウェン・グレイディや、ブライス・ダラス・ハワード演じるクレア・ディアリング。彼らはシリーズの新たな顔であり個性的なキャラクターだったが、続編の『炎の王国』で別人のように変わってしまった。ラプトルの調教師でありながら、誰よりも愛情を持って接していたオーウェンは島に取り残されたブルーを救出することに対して消極的で、逆にクレアは人が変わったように恐竜の命を大切に考えはじめた。クレアの人間性の変化はあくまで“成長”としてプロットの中で新たな役割を担うようになるが、オーウェンのそれは背景もその必要性もわからないまま物語が進行する。理由もなく一貫した行動理念に欠ける主人公に対して、観客の心が離れてしまうのは当然のことと言えるだろう。そんなよくわからないキャラクター同士の関係性……とりわけ「家族」としてのまとまりを観客に提示することに重きを置いたのが『新たなる支配者』だ。
トレボロウの人物描写はパッと見でわかりやすいが、しばしば“恐竜映画の中の記号”として機能してしまう危うさを孕んでいる。観客は表面的にしか彼らを理解できず、行動原理や葛藤が深く掘り下げられることは少なく、物語の駒として配置された印象を受けやすい。

一方でコープの脚本は正反対で、ディテールにこだわる傾向がある。職業だけでキャラクターのイメージを作るのではなく、物語の序盤における言動でその人物像や行動理念をはっきりと明示するのだ。ゾーラ(スカーレット・ヨハンソン)の登場時の装いから漂うこなれ感や、その道のプロとしての振る舞い、仲間を失ったことによるPTSD、心臓病だった母を亡くした経験、お金が必要な理由。ダンカン(マハーシャラ・アリ)が彼女との会話で見せる長年の信頼関係、仲間想いの性格、かつて幼い息子を失った経験。ヘンリー博士(ジョナサン・ベイリー)はこれまでのシリーズにもいた存在として、本作でわかりやすい使命(生命に敬意を示す人物、軸となるモラルを示す一般人)を担っている。
ルーベン(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)率いる家族チームも、登場したシーンから10分でおおかたの人物紹介を終えている。そしてトレボロウ作品と相反して、その後の物語で彼らの人間性を深掘りすることを忘れないのだ。とはいえ、特に島に上陸するまでのその詳細なキャラクター描写が“恐竜を観に来た”観客にとって冗長に思えることはとても理解できる。

また、エドワーズ監督作としての特徴としては『GODZILLA ゴジラ』や『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』を振り返ってもわかるように、しばしばキャラクターを巨大な存在や歴史的な運命の前に置くことで、その小ささを際立たせることがある。本作においても、人間は“恐竜という人間が科学の力で再生させた、にもかかわらず制御ができないもの”に翻弄される存在として描かれている。そしてそのスタンスは、本作における恐竜描写にも繋がっているのだ。
恐竜を“野生動物”として描く
『ジュラシック・パーク』が画期的だったのは、恐竜を単なる“怪物(モンスター)”としてではなく、科学的な再現と映像技術をもって“動物”として描いたことだった。スピルバーグの恐竜は恐ろしくも美しく、その存在感が観客に畏怖と感動を与えた。

しかしシリーズを重ねるにつれ、恐竜は“スペクタクルを盛り上げるためのアトラクション的存在”へと変質していく。特に『ジュラシック・ワールド』以降は、恐竜が商品や軍事兵器として扱われ、いわば「人間の都合に合わせたクリーチャー」としての側面が強まった。これは現代のフランチャイズ映画の宿命でもあるが、恐竜そのものが観客にとっての「神秘」ではなく、「娯楽のギミック」として消費され始めた瞬間だった。
ブルーを筆頭にヴェロキラプトルなど、本来はシリーズにおいて非常に恐ろしかった存在がアイドル化されすぎたこともある。毎回人間の味方として戦うかのようにやってくるティラノサウルスも、かつては恐ろしい存在だったはずだ。彼らはまるで日曜朝に放送されるヒーローショーのように、登場が“お決まり”としてパターン化されていた。

これに対し『復活の大地』は、一度“怪獣映画”へ傾きかけたシリーズを原点に引き戻そうとした。恐竜は人間に利用される存在ではなく、あくまで人間の手に余る“自然の象徴”であるという視点で描かれている。なので、登場人物が能動的に探しに行くモササウルス、ティタノサウルス、ケツァルコアトルス以外の生物は彼らが、そして私たちが予期しない形で“遭遇”するのだ。本作においてシリーズの花形ともいえたヴェロキラプトルがアウトフォーカスのままスクリーンから消えてしまう描写はまさに、これまでフランチャイズの中でアイドルとして消費され続けた彼らが自然に帰った瞬間とも言える。筆者自身もブルーや4姉妹は好きだったものの、少し辟易とする気持ちもあったためこの選択にはかなり感銘を受けた。

私たちは、本作で会いたい人気恐竜にたくさん会えるわけではない。彼らの登場時間も、私たちが望むものではない。『ジュラシック・パーク』でもお馴染みのディロフォサウルスの登場は、それはあくまで観客が正体を見破っている分かりやすい脅威であり、そんな脅威がピーピー鳴いて逃げてしまうほど恐ろしい存在(ティラノサウルス)が近くにいる、という状況説明としての機能であり、アイドルだからちょい役で登場した意味とは少し違うのだ。
クレブスが船場まで車で走行するシーンで、一瞬アンキロサウルスと遭遇する。あのシーンが強調するように本作の恐竜は野生で、登場人物は彼らの住処(自然)の中に迷い込んだ小さな存在だ。だからこそ、ワクワクする。ティラノサウルスの川下りシーンなど、予期せぬ遭遇によってスリルが味わえる。まさに本作でスクリーンに登場する恐竜たちは、物語を動かす道具ではなく、人間の無力さを示す鏡像として再び息を吹き返したのだ。




















