横浜流星の言葉は現代人も胸に刻む必要がある 『べらぼう』が突きつける“怒り”のその先

『べらぼう』が突きつける“怒り”のその先

「俺は、俺たちは、それをおかしいと言うことも許されぬのか。こんな世は正されるべきだと声を上げることも」

 NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第32回「新之助の義」は、胸を締めつけるほどの痛みと、同時に人が人として生き抜くための「義」を問う一話であった。

 ふく(小野花梨)と幼い息子を失った新之助(井之脇海)の絶望と怒りは、もはや個人の悲しみを越えて、世の中に対する抗議へと変わっていく。彼が向かおうとしたのは「天明の打ちこわし」。市井の人々の声なき声を代弁するかのように、その激情は爆発寸前まで膨れ上がっていた。

 そんな新之助を蔦重(横浜流星)は友として止めたいと願う。長屋を離れ、自分の屋敷に身を寄せるよう勧めたのもその一環だ。しかし、新之助は拒絶する。痛みから逃げないことこそが自らに課せられた務めだと信じて。そこにはふくたちを失った今、彼が「生きる」ことの意味を模索する切実な姿があった。自分の命よりも愛しい家族を奪われた先に見出す、生きる道とは……。

 江戸の街では米価が高騰し、飢えに苦しむ人々は奉行所に押しかける。商人たちは米を買い占め、値がさらに上がるのを待って売り渋るばかり。訴えども訴えども改善の兆しはなく、やがて絶望のあまり命を絶つ者まで現れるようになった。

 「米がなければ犬を食え」。そう吐き捨てられたという噂が広まるや、民衆の怒りは頂点に達する。新之助の脳裏にも「お上ってのは私たちも生きてるとは考えないのかね」とふくの声がこだまする。こんなの間違っている、と正す声を上げることこそ、ふくの無念を晴らすもの。ふくと息子を奪った犯人を突き動かしたのは、田沼政治の腐敗そのものだと悟った新之助。

 しかし、蔦重は意次(渡辺謙)が市民のために奔走していることを知っている。だからこそ、怒りをただ暴発させてはならないと説く。だが、人間は一度「これが己の道だ」と思ったとき、もはや誰の声も届かないほどに強くも危うくなるものだ。

 そんな新之助を目の当たりにして、蔦重はかつて平賀源内(安田顕)が胸に手を当てて語った言葉を思い出す。「自らの思いによってのみ、我が心のままに生きる。わがままに生きることを自由に生きるって言うのよ」と。

 誰に命じられるでもなく、己の意志で人生を選び取ること。たとえその意志の果てに茨の道が待っていようとも、その自由こそが人間の生きる証。源内を介してつながった蔦重と新之助。だからこそ新之助の"自由"を止める権利は蔦重にはない。ならば、せめて彼の「義」が正しく伝わる方法を示すしかないのだ。

 「カラッといきてぇじゃねぇですか、江戸の打ちこわしは」。源内の言葉を借り、新之助のわがままを認める代わりに、蔦重のわがままを言わせてくれと頭を下げる。「誰ひとり捕まらねぇ、死んだりしねぇこと」「あれはいい打ちこわしだったね」と笑いながらみんなで米をガツガツと食らう、そんな未来にすること。

 理性を欠いた暴徒と化すのではなく、主義主張を明確にして米屋と「喧嘩」をする。「喧嘩両成敗」が大原則となっていた江戸時代。米を盗んだり斬りつけたりしなければ、喧嘩として処罰も軽くなると考えたのだ。

 そして「のぼりを作っちゃどうです? 新さんたちが一体、何に怒っているのか」と蔦重に促され、市民の声を形にした新之助。「金を見ることなかれ。すべての民を見よ。世を正さんとして、我々打ちこわすべし」――そこに込められた新之助の願いは、いつの時代にも通じる「生きるための叫び」であった。

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