『美しい夏』は“背伸び”したがりなあの頃を思い出させる 通過儀礼の不完全燃焼

リアルサウンド映画部の編集スタッフが週替りでお届けする「週末映画館でこれ観よう!」。今週は、映画館で観た直近の作品が『鬼滅の刃』である徳田が、映画『美しい夏』をプッシュします。
『美しい夏』

本作の原作は、イタリアの巨匠チェーザレ・パヴェーゼが1940年に著した同名小説。16歳の少女・ジーニアが「大人の階段」を登るまでのひと夏が描かれる。
この作品について、物語の時系列に沿って何かを論じるのはなかなか難しい。イタリア文学が原作であることを抜きにしても、ジーニアは何か自身の動機を雄弁に語るわけではなく、というよりそもそも自分が何をしたいのかハッキリと自覚できていないかのようであり、起承転結的な発想でストーリーラインを捉えようとすると散漫な印象さえ抱く。
しかしそれ自体が思春期の、「大人」になる直前の少女の、いわば当てのないエネルギーに満ちたくすぶりの表れとして捉えられるだろう。

ジーニアは洋裁店の針子として、兄と二人暮らしをしている。家計をめぐって口論になる場面は当然として、ほぼ全編を通して明らかに自信なさげな表情をみせるジーニアからは、現状への不満、あるいは不満であるとも断言し切れない、漠然とした鬱屈さが見て取れるだろう。
やがて(と言うにはかなり序盤)彼女の前に、アメーリアが現れる。ピクニック中、ボートから池に飛び込み下着姿でやってきた彼女のその奔放ぶりに、ジーニアは目を丸くする。戸惑いと憧れからアメーリアに近づいたジーニアは彼女がヌードモデルであることを知り、「洋裁店」勤めのジーニアとの対比も端的に示される。

そしてジーニアは、アメーリアのような「大人」になろうと彼女の行動を模倣する。具体的には酒、タバコ、セックス。あるいはモデルの仕事も引き受けようとして画家の男に近づき、その男と関係を持つ。
ただしジーニアの表情が晴れることはない。何をしていても居心地の悪さを感じているようだ。無理をして「飲み会」に参加した新入社員(あるいは大学1年生)が、引きつった笑顔で忖度と知ったかぶりに全力を費やすさまが思い出される。

象徴的なのは初めて画家の男と寝るシークエンスだろう。服を脱がされ、ゆっくりと裸になるまでの長回しのショットで、ジーニアは自身が処女であることを示唆するセリフをいくつか漏らす。男に押し倒されるまでの間にカメラは2人に近づき、緊張感が高まっていく。
かと思いきや、いざ本番が始まると矢継ぎ早にカットが切り替わっていき、あっという間に絶頂(男が)。行為中もあの曇った表情でいつづけてたジーニアはボーッと壁を見つめ、そこを這っていた虫におもむろに手を伸ばす。
彼女がその実態をよく知らぬまま過大評価していた通過儀礼はあっさりと終わる。初体験をめぐる「背伸び」と「あっけなさ」を端的に描いたシークエンスだ。
そしてこの通過儀礼の不完全燃焼に呼応するかのように、物語自体もなんだか煮え切らないところへと着地していく。
「大人」になるべく不摂生の真似事をして実際に不摂生になり、仕事はクビ、兄との仲は険悪化していたジーニアだったが、やがて「洗濯係」として職場に復帰。兄との関係も修復して「身の丈」にあった生活が再び動き出す。
大人の真似事をしても大したことは得られないこと自体を教訓として持ち帰り——つまり実質的には傷みだけが増して——普通の日々が帰ってくる。冒頭のピクニックの場面は反復される。

ただしジーニアはアメーリアとの出会いから、密かに、しかし決定的な違いを日常に持ち帰ってもいる。カメラと被写体との距離からセリフ量に至るまで、慎重な翻案がなされた本作においてそれを指摘するのは野暮だろうけれども。
■公開情報
『美しい夏』
全国公開中
出演:イーレ・ヴィアネッロ、ディーヴァ・カッセル
監督・脚本:ラウラ・ルケッティ
原作:チェーザレ・パヴェーゼ作、河島英昭訳『美しい夏』(岩波書店)
提供:日本イタリア映画社
配給:ミモザフィルムズ
後援:イタリア大使館
特別協力:イタリア文化会館
2023/イタリア/イタリア語・フランス語/111分/カラー/2.39:1/5.1/原題:La Bella Estate/英題:The Beautiful Summer/字幕:増子操/字幕監修:関口英子
©2023 Kino Produzioni, 9.99 Films





















