やなせたかし&暢が『あんぱん』をもし観ていたら? やなせスタジオ代表・越尾正子に聞く

『アンパンマン』の生みの親として知られるやなせたかしと、その妻・暢の半生をモデルに描くNHK連続テレビ小説『あんぱん』。実際にふたりと長年を共にしたやなせスタジオ代表・越尾正子氏は、「本当にお二人の人生は“ドラマ”みたいでした」と明かす。戦中を生き抜き、強くしなやかに時代を越えたのぶのモデル・暢の姿は、まさに“ハチキン”そのもの。今田美桜が演じるのぶに越尾氏は何を見たのか。知られざる夫婦の素顔、そして彼らと共に過ごした越尾氏のリアルな記憶を紐解いていく。
暢さんも“ハチキン”な女性だった

――暢さんとやなせさんの人生が朝ドラになると聞いたときの率直な感想は?
越尾正子(以下、越尾):最初にお話を聞いたとき、高知県が舞台の作品には『らんまん』があったので、「そんなに続けてないだろう」と、勝手に見送りになると思っていたんです(笑)。その後は秘密にしなければいけない期間が長かったので、公式発表の頃には“秘密疲れ”していましたね(笑)。でも、暢さんとお茶のお稽古を通じて知り合ってから、平成になった頃まで一緒に過ごしてきて、「この生き方はドラマになってもいいな」と思っていたので、放送されてよかったなと思いました。ただ、朝ドラというのはまったく頭の中になかったですね。
――暢さんの人生のどんなところがドラマチックだと感じますか?
越尾:やなせ先生と同じように、お父様を早くに亡くされていて。長女として「家庭を築くためには、自分がしっかりしなくちゃいけない」という考えで学校生活を過ごされていました。そして、少女から大人になりかけの頃には、戦争というものすごく大変な時期を迎えるわけですね。そこを生き抜いてからも、“当時の女性”ということを考えると「たくましいな」と思うようなエピソードがたくさんあるんです。波乱万丈というほどの苦労話は聞いていませんが、やっぱり普通の生き方よりも厳しい世界を歩んできたんじゃないかと想像して、ドラマで観てみたいなと思いました。
――実際にドラマをご覧になっていかがでしょうか?
越尾:私はやなせ先生や奥さんのことを知っているようでいて、実は奥さんは50代から70代くらいまで、やなせ先生とも20年ほどのお付き合いだったので、人生の一部分しか知らないんですよね。子ども時代や、いわゆる青年期にさしかかった時代を映像で見られるのがすごくうれしくて、毎日楽しみにしています。
――実際の暢さんは、どんな方だったのでしょう?
越尾:しっかりと相手を立てるときには立てる。それでいて、権力者や会社の偉い人が理不尽なことをすると、「それはいけない」と言えるような人でした。のんびり屋の私がミスや失敗をすると、「こうした方がいいわよ」と優しく教えてくれて、強く言われるようなことは一度もありませんでしたね。“ハチキン”といっても誰にでも強くガンガンと物を言うわけではなくて、本当に「気持ちのいい女性だな」と感じていました。
――暢さんの人柄がわかるエピソードも聞かせてください。
越尾:私が先生のところで働かせていただくことになったとき、暢さんから通帳や実印、貴重な財産が記録されているようなものをポンと渡されて、「じゃあこれ、お願いね」と。さらには「これは金庫に入れてあるんだけど、金庫の鍵はここに置いてあって、暗証番号はこれね」と言われて、「あまりに任されすぎて、大丈夫なのかな」と自分でも気になるくらいでした。その頃、暢さんはお茶の先生でもあったので、「先生、もし私が悪い人だったらどうします?」と聞いたら、奥さんは「もしあなたが悪い人だったら、自分に見る目がなかったと思って諦める」とおっしゃったんです。そんなところが“ハチキン”と呼ばれる所以だと思いますし、そういう女性には今まで奥さん以外に出会ったことがありませんね。
――今田美桜さん演じる“のぶ”をご覧になって、どう思われましたか?
越尾:正直、最初に今田さんの写真を見たときにはあまりに若くて、ピチピチしていて(笑)。何しろ、私はある程度年を取ってからの奥さんしか知らないので「若すぎる」と思いました。でも、映像を観るとさすがは俳優さんで、「あぁ、奥さんこういう表情をすることがあるな」と感じるような雰囲気が出ていて、すごくいいなと思いながら見ています。

――初回放送の冒頭で、年を重ねたやなせさんが登場した際には「そっくり」と話題になりました。
越尾:テレビで見ると、やっぱり肌がツヤツヤだなと思いましたが(笑)、デスクに向かっている姿はそっくりですね。ハッとするくらい似ていました。仕事場の雰囲気も、よく再現されているなと思います。
――やなせさんと暢さんは、どんなご夫婦だったのでしょうか。
越尾:高知の名産に「小夏」という柑橘系の果物があるんですが、私が会社に入ったばかりの頃、やなせ先生が「正しい食べ方を教えてあげます」と言って、包丁で皮をくるくるとリンゴのように剥いてくれたことがありました。「小夏は白皮をつけたまま切って食べると美味しいんですね」。そして、「うちのかみさんは絶対正しい食べ方をしないで、みかんみたいに食べるんです」と話すと、奥さんは照れたように笑っていて。その時代は女性が「正しい剥き方で食べなさい」と言われて、「はい」と従うことが多かったんですが、奥さんは奥さんで自分の剥き方をする。先生は先生で、そういう剥き方をする。先生は「正しいのは僕の方だぞ」と知らない人には言うけれど、奥さんに「食べ方を変えなさい」とは言わないんです。小さなことですが、すごくいい夫婦関係だなと思っていました。
――やなせさんは、暢さんにお仕事のお話もされていたんですか?
越尾:奥さんは「どうしても口出ししたくなるから、仕事場には行かない」と言っていました。自分が口出しすることによって、仕事に支障をきたすのではないかと考えたみたいです。先生も細かい仕事については一切話さず、自分で注文を受けて、ひとりで仕事をしていましたね。一方で、『見上げてごらん夜の星を』のミュージカルが大阪で大成功したときには奥さんを呼んだり、個展をやるときにも「見に来なさい」と声をかけたり。そんな仕事の見せ方でした。
やなせたかしが見つめ続けていた戦争

――今回の朝ドラでは、戦時中の出来事も描かれました。あらためて、やなせさんには戦争に対してどんな思いがあったのでしょうか。
越尾:やなせ先生の戦争に対する思いは、段階的に変化していきました。戦後すぐには、「一緒に戦地に行った人たちが戦死して帰れないのに、自分は帰ってきて申し訳ない」という気持ちから、喋ることができなかった。それから時間が経つと、今度は自分自身が過去の辛い体験を思い出したくなくなって、話さなくなるわけです。でも90歳近くになって、戦地を体験した人も少なくなってきたことで「やっぱり自分は戦争のことを話しておくべきだ」と言って、『ぼくは戦争は大きらい』という本を出版されました。やなせ先生が一番に言っていたのは、「一度戦地を体験したら二度と戦争なんかしたくなくなる。戦争は絶対にやっちゃいけない」ということでした。戦後の混乱期には靴を盗まれる経験もされて、死ぬ間際まで「靴を盗まれる夢を見た」と言っていたんです。物もなかなか手に入らない時代だったので、戦地に行った人ばかりではなく、日本にいる人の心まで荒れてしまう。私たちには想像できないような時代を過ごされたんだなと感じています。
――劇中でも、嵩にとって弟・千尋の存在が大きいですが、やなせさんにとって弟さんはどのような方だったのでしょうか。
越尾:やなせ先生の中で、戦争で弟さんを失った寂しさ、辛さは年々増していました。「もし今、生きていてくれたらどんなに心強い存在だろう」「昔よりも今の方が1000倍悲しい」とも言っていましたね。若い頃には競争心やコンプレックスもあったと思いますが、そんなことを超えて、ただただ寂しくて辛い。病気ではなく、戦争で死んでしまったということが、その辛さを何倍にもしていたんだと思います。若くて元気で、まだ“死”なんか遠い存在だったのに、そこで死ななければいけなかった弟さんのことを思うと、1年ごとにその寂しさ、悲しさが増していく。それが正直な先生の気持ちだなと思いながら、そばで話を聞いていました。


















