ポン・ジュノによるマルチバース的全能感の批判的検証 『ミッキー17』で“取り戻す”第一歩

 『ミッキー17』の3Dプリンタでいくどとなくプリントアウトされるミッキーは、とうとうVer.17にまで達し、生命というものの価値が暴落した状態になっている。その空々しさはマルチバース的全能感の批判的検証となりうる。植民惑星ニフルハイムへの到着前から愚劣な独裁支配を敷くマーシャル元議員(マーク・ラファロ)にドナルド・トランプへの風刺を見て取ることはたやすい。さらにはナーシャ(ナオミ・アッキー)というタフな黒人女性のリーダー像をいまいちど擁立し、レジスタンスに向かわせるが、ポン・ジュノは第二次トランプ政権の誕生を予知していたということか。

「私は、政治的風刺のために映画をつくるわけではありません。映画がプロパガンダになってしまうのは避けたいと思っています」ポン・ジュノ(「キネマ旬報」2025年4月号)

 監督の主張を真に受けるなら、マーシャル元議員の下品な煽動にドナルド・トランプを、ナーシャの使命感にカマラ・ハリスを見て取ることは、もはや重要ではないのかもしれない。直接の政治的風刺以上に重要なのは、ミッキーのVer.17に半地下の家族の悲哀を見ることであり、植民惑星ニフルハイムの地下に生息する巨大な芋虫型のクリーチャーに南北アメリカ先住民の置かれた境遇を重ねることである。

 莫大な予算をかけたSFではあっても、これは『スター・ウォーズ』でも『スターシップ・トゥルーパーズ』でもない。

「スペースオペラのようにレーザー銃を撃ち合う作品ではなく、愚かな愛すべき人たちの物語になっています」ポン・ジュノ(「キネマ旬報」2025年4月号)

 『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997年)の段階においては、主人公の戦士たちはバグズ(昆虫型の宇宙生物)との戦いの日々の中で、ひたすらバグズを殺戮して回ればそれでよかった。このSF活劇におけるポール・ヴァーホーヴェン監督の冷酷かつシニカルなユーモアは、「虫ケラ相手なのだから、どんなに残酷な殺戮シーンだって見せてかまわないだろう」という、居直りである。ファシズム国家のありようが全面肯定されたこの映画は、ヴァーホーヴェンにとってはあくまで高度な皮肉のつもりだったが、さらに皮肉なことにこの映画は「ナチズム礼賛映画」として主要メディアからは非難された。しかしそうした経緯も「シミュラークル」の時代の良き範例ではある。

 虫ケラ相手なのだからどんな凄惨な殺戮だろうと殺しまくればよい、という『スターシップ・トゥルーパーズ』のヒューマニズム度外視のシニシズムがシニシズムとして通用した時代はまだよかった。しかし、ガザ、ヨルダン川西岸、ウクライナにおける無残な殺戮を見るにつけ、もはや現代では『スターシップ・トゥルーパーズ』的シニシズムの出る幕はない。

 無農薬による有機栽培の(あえての素朴主義の)手つきがSF映画にも必要になってきた。ミッキーVer.17と彼が宇宙船での航行中に知り合って恋人となるナーシャは、タブレットのモニターに好みのセックス体位を何種類も描きこんで、2人で楽しみながらそのひとつひとつに「C8」とか「B4」とか号数を名づけていく。鉛筆の芯に号数を付けるかのごとく。未踏の新天地においてすら地球的なファッショを持ちこむマーシャル元議員の政治体制に対して、ミッキー/ナーシャ連合は「C8」「B4」といったセックス体位の象形文字の変数を提示して対抗する。

 彼らの新しい力の源泉は象形文字、自動翻訳機、季節感、そしてナーシャが最後に履き替える黒タイツと黒のローファー。まるでアメリカがリンカーン時代に戻ってやり直すかのように。新天地には新価値を。そして新天地では、ついぞ地球で実現しえなかった、しかし人類文明の最終完成形であるべき「共生」を。おずおずとして、素朴な第一歩をしるすこと。ミッキー17が「ミッキー・バーンズ」と姓/名という形でクレジット表記され直すこと。つまり名前を取り戻す。そんなことからでも始めよう。ポン・ジュノがそうつぶやいているように聞こえる。

■公開情報
『ミッキー17』
全国公開中
出演:ロバート・パティンソン、ナオミ・アッキー、スティーヴン・ユァン、トニ・コレット、マーク・ラファロ
監督・脚本:ポン・ジュノ
配給:ワーナー・ブラザース映画
2025年/アメリカ/G
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公式サイト:mickey17.jp

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