坂元裕二でも免れることのできない掟 『ファーストキス 1ST KISS』にみる“マルチバースの病”
長年にわたりTBSドラマを中心に主軸ディレクターとして鳴らし、近年は『ラストマイル』(2024年)、『グランメゾン・パリ』(2024年)と、映画でも商業的成功を収めている塚原あゆ子監督と、言わずと知れた名脚本家・坂元裕二が組んだとなれば、あらかじめ成功は約束されたものとなる。じっさいこの新作『ファーストキス 1ST KISS』は公開初週を1位スタートとし、その後も好調な興行を続けており、筆者自身すでに2回にわたり劇場で同作を存分に楽しみ、時にはもらい泣きもしている。
しかし筆者は『ファーストキス 1ST KISS』にもらい泣きしたからといって、全面的な支持をしているとは言いかねる。どうも書きづらくはあるが、そのあたりのことを書いていければと思う。といっても、ここで坂元裕二批判も、塚原あゆ子批判も展開しようとは思っているわけではない。ただ、無視しがたいある症候について注目を促しておきたいのである。
塚原あゆ子の映画監督としての作家性はこれまでのところ不透明である。関係者へのインタビューを読むかぎり、スタッフ・キャストへの的確なコミュニケーションを見せるきわめて有能なディレクターであることははっきりとわかるが、これぞ塚原映画という署名性が希薄である。この点が土井裕泰と大きく異なる点だ。TBSという恵まれた環境で演出家としての腕を磨いたという点で塚原あゆ子と土井裕泰は共通しており、それは撮影所システム全盛期の職人監督たちのありようを、ある程度は再現しているかもしれない。
土井裕泰はその環境下にあって最初期からおのれの刻印を自作に残し始め、鈴木清順とは言わないまでも、中村登や千葉泰樹といった作家と職人の中間的存在として、日本映画界で独自のポジションにいたのである。ただ単によくできたエンターテインメントとしてばかりではなく、土井裕泰の署名性は見る人から見れば明らかとなり、黒沢清監督がいち早くそれに勘づいて『ビリギャル』(2015年)を賞賛したことはよく知られている。塚原あゆ子にこうした余剰としての署名性はあるだろうか。この問いに答えるのはおそらく時期尚早である。塚原は近い将来、野心的な一手を打ってくるにちがいないだろうから、評価するのはそれからでも遅くはない。
今回の坂元裕二のシナリオにはどうも引っかかる。竹原ピストル演じる宅配便スタッフが配達する「3年予約ぎょうざ」が作品の最初と最後を締める格好となっているが、あれは土井裕泰監督の映画進出第1作『いま、会いにゆきます』(2004年)において死ぬ前の竹内結子が、残されて父子家庭となる中村獅童と武井佑司の親子宛てに10年後に配達してくれと注文したバースデーケーキを、本当に10年後になって配達しに来る松尾スズキとあまりにも酷似しているのではないか。オマージュということなのだろうか。
『ファーストキス 1ST KISS』はタイムリープ、タイムスリップを主題とする映画である。夫の松村北斗が鉄道事故で急死し、未亡人となった松たか子が、タイムトラベルするたびにいつも、夫との出会いの場となった15年前の高原ホテルに辿り着く。しかしながら、ここからは問題含みとなる。松たか子は夫が15年後に事故死することのないように歴史の書き換えを画策するわけだが、なんどもなんども失敗する。そしてそのたびにリセット。
歴史はリセットすれば、ゲームのようになんどでもやり直せる。∞(無限)の能力を突如として当てがわれた松たか子は、脚本家の分身であると同時に、いわばリセットの牢獄につながれた囚人でもある。このあと二人の愛の物語がどのように感動的に謳い上げられようとも、客観的に見れば、これは時間の囚人の行動記録だ。松たか子/松村北斗の二人組は、アニメ『君の名は。』(2016年)における愛と救命のメロドラマを、身を挺してリメイクしようとしている存在であって、極端なまでに「映画の登場人物」としてそこにいる。いかに芸達者な松たか子が生き生きとしたコメディエンヌぶりを発揮して、喜劇的要素を加味しようとも、これは生身の人間ではない。
“マルチバースの病”――筆者は上述の状況を、このように名づけたい。または、“時をかける症状”でもよい。あれほど全世界で熱狂を生み出したマーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)は、コロナ禍という要因もあるにせよ、急激にムーブメントとして萎んでいった。その後は興行的に持ち直した作品がゼロというわけではないが、もはやかつての栄光を取り戻すことは容易ではあるまい。MCUの退潮と、MCUにおける「マルチバース」概念の濫発は同じタイミングのできごとである。
『アベンジャーズ』サーガが一段落すると、物語再構築はもっぱら「マルチバース」にゆだねられてしまった。『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021年)で人類を危機に陥れるのは、スパイダーマン自身による歴史改変のエゴイズムである。そこでは世界は数限りなく存在し、無数のヴァージョン違いが露出しているのだという。「たられば」のインフレーションが起きて、物語それじたいが蓋然性を喪失した状態である。
『ファーストキス 1ST KISS』に起きているのもこれと同じ蓋然性の喪失と、モラルの消滅だ。思いつくかぎりの「たられば」を積み上げ、できごとの一回性を消去し、人格の固有性も希薄化する。あらゆるヴァージョン違いの松村北斗がタイムトラベラー松たか子の都合によって量産され、一期一会であるはずの運命、出会い、別れが、一期一会ではなくなった世界。あとはもう、残された使命は後始末しかない。リセットのたびに運命の反復で弄ばれてきた対象、つまり未来の夫となる若き日の松村北斗が、物語の復権を唱えるほかはないのである。