早川雪洲、三船敏郎、渡辺謙、菊地凛子、真田広之 日本人俳優の海外進出の歴史を辿る

日本人俳優の海外進出の歴史を辿る

 快挙である。日本を舞台にした時代劇『SHOGUN 将軍』(ディズニープラス)がテレビ番組の最高峰、プライムタイム・エミー賞で作品賞を受賞した。同作の制作はアメリカの制作会社だが、大量の日本人スタッフ、キャストが関与しており、実に11人もの日本人がエミー賞にノミネートされた。主要部門では、プロデューサーを兼任した真田広之が主演男優賞、アンナ・サワイが主演女優賞を受賞している。プライムタイム・エミー賞の主演男優賞を受賞した日本人が初なら、アジア人の主演女優賞も初。アメリカ制作のプログラムでありながら、同作は劇中言語の大半が日本語である。非英語作品がエミー賞の作品賞候補になったのは『イカゲーム』(韓国語)と本作の2本しかなく、受賞となると本作しかない。まさに前代未聞の快挙となった。

 『SHOGUN 将軍』は、ジェームズ・クラベルの小説を原作としており、テレビドラマ化されるのは実は二度目である。一度目は1980年で、プライムタイム・エミー賞作品賞(ミニシリーズ部門)を受賞している。しかし、1980年代当時と現代ではテレビシリーズに対する評価自体が大きく異なる。少し前まで、テレビは映画より格下の存在との風潮があった。それは出演者を見るとわかりやすい。1980年代のエミー賞候補作では、映画界でも活躍するような俳優の名前を見ることは稀である。1990年代でも出演者の顔ぶれはほとんど変わらない。潮流は徐々に変わり始め、2010年代になるとテレビシリーズに映画でも確たる実績のある大物が出演することが珍しくなくなった。第64回プライムタイム・エミー賞(2012年)はミニシリーズ/テレビ映画の主演男優賞がケヴィン・コスナー、ミニシリーズ/テレビ映画の主演女優賞はジュリアン・ムーアだった。もっと最近の例だと、第91回アカデミー賞(2019年)の俳優部門受賞者の例が象徴的だ。演技部門を受賞した、ラミ・マレック、オリヴィア・コールマン、マハーシャラ・アリ、レジーナ・キングの4人は、全員受賞当時にテレビシリーズのプロジェクトを抱えていた。今年『SHOGUN 将軍』とプライムタイム・エミー賞 の演技部門 (ドラマ・シリーズ部門)を争った作品を見ると、その出演者にイメルダ・スタウントン、ジョナサン・プライス(『ザ・クラウン』)、リース・ウィザースプーン(『ザ・モーニングショー』)、ゲイリー・オールドマン(『窓際のスパイ』)のようなアカデミー賞の演技部門の受賞、ノミネート経験がある映画ファンにもおなじみの大物の名前が並んでいる。『将軍』の一度目の映像化となった1980年代には見られなかった現象だ。

 今やテレビシリーズ(ネット配信シリーズも含む)は映画の格下ではない。映画界の大物でも出たがる、A級のプログラムになった。そんな現代において、日本人俳優がエミー賞を受賞した意義は極めて大きい。真田広之はハリウッドやイギリスの映画でも活躍してきたが、ずっと助演扱いだった。今回のエミー賞受賞で映画での扱いも変わるかもしれない。

 そんな今回の日本人の快挙だが、今まで日本人の俳優がハリウッドを含め海外で顕著の活躍をした例はどれほどあるのだろうか? 今回は、その活躍の歴史を20世紀初頭から現代まで振り返っていこう。

最初の国際的日本人スター・セッシュウ

 筆者の手元に一冊の本がある。北野圭介の著『ハリウッド100年史講義』である。ハリウッドの歴史が簡潔にまとめられた、ありそうでないタイプの良書なのだが、同書によると、ハリウッドが世界の映画産業における中心地としての地位を築いたのは、1910年代の後半とのことだ。その過程には、発明王エジソンと小規模興行主の戦いや、第一次世界大戦におけるヨーロッパ映画産業の衰退といった興味深い出来事も含まれているのだが、詳細は北野氏の同書に譲るとしよう。さて、そんなハリウッド創世期ともいうべき1910年代に日本人俳優はいたのだろうか?

 実はすでにいた。映画ファンなら一度は名前を聞いたことがあるであろう、早川雪洲である。雪洲は1886年生まれ。21歳で単身渡米し、アメリカで俳優としてデビューしている。日本はアメリカほどではないにしても、かなりの映画大国であり、戦中・戦後の一時期を除けば、年間の映画製作本数は世界でもほぼ常にトップ10に入ってきた。太平洋戦争が勃発する1941年以前、日本はアメリカに次ぐ年間500本近い映画を製作していたと聞けば多くの人は驚くだろう。2010年代以降の近年に絞っても日本の映画製作本数は毎年、おおむね5位内には入っている(このあたり、興味おありの方は四方田犬彦『日本映画史110年』をご参照いただきたい)。

 しかし、雪洲が『おミミさん』でデビューしたのは、1914年のことである。映画大国アメリカでようやく映画がビジネスとして形を為した時代であり、日本の映画産業はまだ夜明け前といった段階だった。この時代の日本映画のスターに尾上松之助がいるが、彼は名前から容易に想像がつく通り、歌舞伎の出身である。まだ演劇と映画の境目が曖昧な時代であり、活動弁士という日本特有の演者とは異なる存在が俳優よりも支持されていた時代だ。1914年にハリウッドで映画デビューするのと、日本映画でデビューするのは、意味合いにかなり大きな違いがあったと言えるだろう。

『戦場にかける橋』の早川雪洲/写真:Everett Collection/アフロ

 雪洲はその後、アジア人で初のハリウッドスターとして地位を確立していく。セシル・B・デミル監督の『チート』(1915年)に主演すると、同作は製作費の10倍近い興行収入を挙げるヒット作になり、イタリア出身のルドルフ・ヴァレンティノと並ぶ「異国のスター」を代表する存在となる。太平洋戦争で日本とアメリカが敵国になるとアジア人迫害を避けてフランスに渡るが、戦後に呼び戻されて『戦場にかける橋』(1957年)で日本人俳優初の米アカデミー賞候補(助演男優賞)になった。同年のアカデミー賞では日本人のナンシー梅木(ミヨシ・ウメキ)が『サヨナラ』(1957年)でアジア人俳優初のアカデミー賞(助演女優賞)を受賞している。その後、『ミナリ』(2020年)で韓国人俳優のユン・ヨジョンが受賞するまで、同賞のアジア人の受賞はなかった。その前年には日本出身の日系人俳優、マコ岩松が映画デビューしている。岩松は『砲艦サンパブロ』(1966年)でアカデミー賞の助演男優賞候補になっている。こういった日本人俳優の活躍が戦後の1950年代に固まっているのは、やはり戦争の影響だろう。日本の戦後復興が進み、敵国日本への敵愾心が終戦から10年も経って落ち着いてきたことも関係しているのだろう。

巨匠・クロサワ、世界のミフネ

 日本の戦後復興が進む中、日本映画界も急速に復興していく。終戦した1945年当時、日本映画製作本数は年間僅か26本に過ぎなかったが、復興が進むとともに加速度的に製作本数は増加し、1960年には547本で最高に達した。復興、拡大が進む戦後から1950年代にかけ、溝口健二、衣笠貞之助、木下惠介、市川崑などが国際的な賞を獲得、候補になるなど日本映画の国際的地位も劇的に向上した。

 だがやはり、それらの中で一段と名高い存在は黒澤明だろう。黒澤の『羅生門』(1950年)は日本映画として初めてヴェネチア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞(現在の国際長編映画賞に相当する)を受賞し、日本映画の地位向上において重要な存在となった。不朽の名作『七人の侍』(1954年)はヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞し、BAFTA賞(英国アカデミー賞)の作品賞候補になった。

 その黒澤作品で1960年代まで常連俳優だった三船敏郎は、戦後日本における最初の国際的な日本人スターと言える存在だ。黒澤監督の『用心棒』(1961年)と『赤ひげ』(1965年)でヴェネチア国際映画祭の男優賞を二度受賞し、リメイク(再映像化)版では真田広之が演じた『将軍 SHŌGUN』(1980年)の吉井虎長役で、エミー賞の主演男優賞(リミテッドシリーズ/テレビ映画部門)候補になっている。

三船敏郎/写真:Everett Collection/アフロ

 アメリカでデビューした雪洲と違い、三船は日本でデビューして日本で地位を確立し、のちに国際的に知られる存在になった。日本映画自体の地位が向上した戦後日本の情勢をバックグラウンドとしており、雪洲とは成功の意味が異なる。惜しむらくは、出演した海外作品にあまり恵まれなかったことだろうか。『ベスト・キッド』(1984年)のミヤギ役を断ったのは有名だが、同役を演じた日系アメリカ人俳優のパット・モリタはアカデミー助演男優賞候補になっている。名匠、スティーヴン・スピルバーグの『1941』(1979年)にも出演しているが、同作はスピルバーグ作品としては珍しく、批評的にも興行的にも成功とは言えない結果だった。仮定の話を語るのは無意味だが、『ベスト・キッド』のオファーを断らず、スピルバーグが『1941』を興行・批評面で成功させていたら、セカイのミフネの地位がどうなっていたのか気になるところだ。

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