『プラットフォーム』シリーズは世界がもたらす“地獄”を表現 『2』では前作の謎も明らかに

『プラットフォーム2』が表現する“地獄”

 興味深いのは、この与えられたルールを堅守するといった方針は、「保守」的なでありながら同時に「共産主義」的な理念に支えられているということだ。それが崩壊を迎えるというのは、本作が実際の歴史において複数の共産主義国の経済が破綻していった流れを描いているように見えるのだ。この描写が指し示しているのは、“全員に等しく分配する”という理念そのものが高邁なものだとしても、実際の社会構造自体に勾配があるという矛盾によって、結局は歪んだ社会になってしまうという構図なのではないか。歴史を振り返れば、生身の人間がどうしても権力を望んでしまい、腐敗が起こる以上、社会主義や共産主義もまた、正常に機能しづらいのかもしれない。

 前作の主人公ゴレン(イバン・マサゲ)や本作の主人公ぺレンプアン(ミレナ・スミット)は、さまざまな葛藤を繰り返し、人間の悪の部分を数多く垣間見るなどの紆余曲折の末、暴力によって事態を打破しようとしていくことになる。良く言えば「革命闘士」、悪く言えば「テロリスト」ということになるが、その試み自体もまた、二人を現状から救うまでに至ることはない。

 では、人間はいったいどう生きればいいというのだろうか。そんな人間の絶望感は、本作で印象的なアイテムとして登場する、スペインを代表する画家フランシスコ・デ・ゴヤの絵画『砂に埋もれる犬』に描かれた、砂の中でただ助けを待つだけの犬に象徴されているように感じられる。ちなみに、前作『プラットフォーム』がスペインの映画賞「ゴヤ賞」で受賞を果たしたことも、この描写に影響を与えたいるのかもしれない。

 そして、最下層に降りていくに従い、システムの構造が具体的に描写されることで、本シリーズのリアリティは大きく揺るがされていく。ここにおいて「穴」とは、中世イタリアの詩人ダンテの記した『神曲 地獄篇』が示した地獄なようなものであったように感じられてくるのだ。それはまさに、現代社会の写し絵である「穴」を描く本作が、ある人々にとっての現世こそが地獄になり得るという見方を表現したものだろう。

 そんな地獄の世界の奥底に、ゴレンやぺレンプアンは、犠牲的な精神をもって一筋の光を差し込ませようとする。二人が最後に同じ行動に至ったのは、自分よりも弱い存在を思わず守ろうとする人間の素朴な精神こそが、社会の改善を考えるときの根本にあるべきだという、作り手の主張だということだろう。どんな社会システムを採用するにせよ、その精神を失ってしまっては、どうしても弱者が犠牲になる構造が出来上がってしまうのだ。そして本作の結末にて、この精神を体現した二人にはせめてもの“ある奇跡”が用意されることとなる。

 例えば目の前で、幼児が一人で泣いていたり、お年寄りが助けを必要としていたら、かなり多くの人々が助けようとするのではないだろうか。しかし、それが政治や経済の話になってくると、途端に誰かを犠牲にするような冷淡な考え方が出てくるようになる。そこには、貧富の差が拡大している傾向にある世界の状況も反映しているのかもしれない。

 だが、かつて経済大国として名を馳せた日本のような国が経済的に失墜していることを思えば、それぞれが弱肉強食の価値観を支持し続けていることは、自分自身が何かの理由で弱者となって“穴”へと落ちたときに、もはや助かる見込みがなくなってしまうということに思い至らないだろうか。自分だけが助かろうと弱者を蹴落とすようなことをすれば、自分もまた蹴落とされる立場になる恐れに怯えなければならない社会になってしまうかもしれないのである。そう思えば、『プラットフォーム』、『プラットフォーム2』の2作は、そんな世界がもたらす“地獄”を抽象的に表現し得たシリーズだといえるだろう。

■配信情報
『プラットフォーム2』
Netflixにて配信中

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