『ジガルタンダ・ダブルX』の強烈なグルーヴ感 「映画をナメるな」という“喝”を体感せよ
奇妙で熱いグルーヴ感の塊のような映画がやってきた。9月13日に公開される『ジガルタンダ・ダブルX』(2023年)は、映画全体に満ちる熱気に身を任せるタイプの映画だ。何しろあらすじの結びからして、謎である。「西ガーツ山脈を舞台にした森と巨象のウエスタンの幕が上がる(公式サイトより)」。いったいどういうことか?
1970年代のインドの森の奥で、シェッターニという凶悪な男が暴れ回っていた。象を殺し、近隣住民を殺して吊るす。その暴れっぷりは人間離れしており、ほとんど狂ったプレデター。しかし、そんなシェッターニを追いかけるはずの警察も極悪集団と化しており、被害を訴えに来た村の人々を逆に難癖をつけてボコボコにする始末だった。
一方その頃、警察官の試験に受かってご機嫌の青年キルバイは、唐突に殺人の濡れ衣を着せられて投獄されてしまう。そんな彼の前に極悪警察官ラトナがやってきた。彼はキルバイに、ある取引を持ちかける。凶暴なギャングの長にして、超武闘派の男、シーザーを暗殺すれば、無罪放免で釈放するというものだった。キルバイはこの取引に乗る。そして、ちょうどその頃、シーザーは映画を作ろうと思い立った。彼は人を何十人も殺している極悪人だが、クリント・イーストウッドを敬愛し、イーストウッドの映画を流すための映画館を作るほどの無類の映画ファンだった。キルバイは、レイという偽名を名乗り、さらに「僕はサタジット・レイ(実在のインド映画の巨匠)の弟子」と大嘘をついてシーザーに接近。かくしてキルバイはシーザー主演の映画を撮り始めるのだが……。
本作は、いわゆる「映画映画」である。インド映画名物のダンスシーンもあるし、アクションもあるが、かと言って、アクション映画ではないし、馬・銃・曲者たちが登場する西部劇でもない。映画を作ること、映画に魅せられた者たちの話、そして映画の力を描く作品だ。物語はレイとシーザーの映画作りで進行していく。ただし、劇中での映画制作がものすごくシンプルである点は書いておかねばならない。映画の中での映画制作は「カメラを構えて撮るだけ」である。映画作りものとしては簡略化され過ぎている感もあり、そこに違和感があってノレないという人もいるだろう。しかし、そこを「そういうもの」と受け入れられたなら、恐らく本作は忘れられない映画の1本になるはずだ。
本作のポスターには、銃を構えるシーザーと、カメラを構えるレイが使われている。本編はまさにこの通りの内容だ。銃を構えているシーザーは、まさに極悪非道、そして無敵の暴力の化身である。象牙を両手に持ってチンピラどもを惨殺し、走って来る車に正面から体当たりして勝利。人間離れした戦闘力で大暴れする。さらに、お気に入りの処刑方法は、自分の映画館でクリント・イーストウッドの映画を流しながら、クリント・イーストウッドのコスプレをして、あえて相手にも銃を渡したうえで早撃ちの「決闘」で殺す、というもの。悪人なうえに変人で、手のつけようがない。しかし映画の中でヒーローを演じるうち、そんな彼の心にも変化が生じ始める。