『ふてほど』はドラマ史に残る“適切”な一作に 宮藤官九郎が描いてきた“生”と“死”の間

 数々の考察を軽やかに笑い飛ばすように終わった宮藤官九郎脚本のドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)。近年のテレビドラマでここまで賛否両論が渦巻き、多彩な視点で語られた作品は他にない。

 最終回を観て最初に口から出た言葉は「え、終わり?」だった。ドラマ本編のあと、黒地の画面に白文字で映し出されたあのテロップは「常識なんて時代の移り変わりとともに変わるもの」との宮藤氏からのメッセージだったのだろうか。

 それはそれで「こう来たか!」な幕の下ろし方なのだが、何ともいえないモヤモヤが残ったのは、おそらく多くの視聴者が見守っていたであろう「1995年1月17日を小川市郎(阿部サダヲ)と娘の純子(河合優実)が神戸でどう迎えるのか」との命題にドラマ内で明確な答えが出なかったからだ。

 思い返せば『不適切にもほどがある!』(以下、『ふでほど』)第1話から第4話までは昭和体質バリバリの中学教師・地獄のオガワこと市郎が偶然令和にタイムスリップし、時代の価値観の差に翻弄されながら、令和を生きる人々に昭和の親父として物申すことで話題を集めたドラマだった。が、第5話でガラっと潮目が変わる。1995年1月17日に自分と娘の純子があの震災でこの世を去ると孫の渚(仲里依紗)と純子の夫・ゆずる(古田新太)から聞かされた市郎は娘と自分の“最終回”が9年後に迫っていることを知る。

 市郎と純子は本当に朝の神戸の街に消えてしまうのか。最終回前には多くの媒体やSNSで考察合戦ともいえる予想がおこなわれた。「タイムマシンを使ってふたりとも生きる」説や「市郎が純子を守り未来に送り出す」説、さらに「ふたりともこの運命を受け入れる」説など。しかし、1986年の世界に戻った市郎と純子が9年後にどうなったのかはとうとう最後まで描写されることはなかった。

『俺の家の話』ドラマ史に残る最終回 宮藤官九郎から“俳優”長瀬智也に捧げられた敬意と愛

微妙に噛み合わない会話や、突然消されてしまう稽古場の電気。前半15分の違和感が、さくら(戸田恵梨香)の「亡くなったの」の一言で一…

 クドカンこと宮藤官九郎にとって“死”とは何なのだろう。たとえば3年前、2021年1月~3月に放送された『俺の家の話』(TBS系)最終回は、主人公の観山寿一(長瀬智也)がプロレスの試合中に自分が死んだことに気づかず、家で普通に暮らし、認知症の症状がある人間国宝の能楽師・父親の観山寿三郎(西田敏行)だけが寿一の姿を認識し話をすることができるという展開。この設定は劇中で演じられる能の「隅田川」にかけていたわけだが、“生”と“死”の間にはっきりした境界線はないのかもしれないと感じられる内容でもあった。

 また、2002年にドラマが放送され、2003年と2006年には映画化もされた『木更津キャッツアイ』(TBS系)。この作品でも、主人公のぶっさん(岡田准一)が病に冒されながら奇跡的に生き返り、仲間たちといろいろやらかしたのちに永い眠りにつくが、その後も霊体として微妙に甦るなど“生”と“死”の間に明確かつ悲劇的な境界線は引かれていなかった。

森山未來×仲野太賀の熱演が生み出した『富久』 『いだてん』は誰も観たことのない“戦争ドラマ”に

10月13日に放送された『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』(NHK総合)第39回「懐かしの満州」。五りんの父・小松勝(…

 2019年の大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』(NHK総合)は先に挙げた2作とは少々異なる。長い年月が描かれた本作では嘉納治五郎(役所広司)をはじめ、大森兵蔵(竹野内豊)らのキーマンが劇中でこの世を去った。が、『いだてん』で特にフォーカスを当てたいのが増野シマ(杉咲花)と小松勝(仲野太賀)の最期とその後だ。

『火焔太鼓』『富久』『替り目』、宮藤官九郎が『いだてん』に仕掛けた“落語”を解説

NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリンピック噺(ばなし)~』の落語指導をしている古今亭菊之丞師匠が、SNSで発信している「#いだ…

 三島家の女中(当時の呼称)であったシマは金栗四三(中村勘九郎)と出会ったことをきっかけに教師となり、のちにオリンピック出場の夢を持つが1923年の関東大震災で浅草にて死去。ところが、物語が進む中でシマの娘・りく役をシマと同じく杉咲花が演じたことで、宮藤は死=終了ではなく“継承”の一環であるとの暗喩を示した。また、りくの夫で四三の陸上における弟子でもある小松勝は終戦後の混乱期の満州で、ソ連兵に夜道で射殺されこの世を去る。このりくと勝の間にできた子どもが『いだてん』の語り手のひとり、五りんこと小松金治(神木隆之介)だ。りくと勝、それぞれの死は悲劇的であり“生”との境界線がはっきり引かれたものではあったが、ふたりのオリンピックへの想いは五りんへと継承されていった。

関連記事