『お別れホスピタル』が誠実に向き合った生と死 豊かな“風”は実写化だからこその表現に

 人はいつか必ず死ぬ。おぎゃぁと生まれたその日から、すでに死へのカウントダウンが始まっている。2月24日に最終回を迎えた『お別れホスピタル』(NHK総合)はそうした「当たり前」の、けれど誰しもが目を背けたがる「真実」に真正面から向き合った作品だ。

 主人公の辺見歩(岸井ゆきの)は、回復の見込みのない患者や、在宅介護が困難となった患者を受け入れる「療養病棟」に勤める看護師。ここに転棟してきた人たちに対して治療は行われず、対症療法のみで、ほとんどの患者にとってここが「終の住処」となるのだ。療養病棟・医療チームの面々にとって、業務は過酷を極める。鳴り止まないナースコール、「不穏」の状態となり興奮して暴れたり、ひどい言葉を浴びせてくる患者。毎日誰かしらが危篤状態に陥り、毎日誰かしらが亡くなる。そして毎日新たな患者が転棟してくる。

 辺見たちスタッフの汗と苦闘の日々が、きれい事に加工されず、臨場感を持って描かれるのだが、そこに憐憫への誘導が一切ないのがこのドラマの「美しさ」といえる。

 死にゆく患者たちについても同じだ。死を「お涙頂戴」にも「イベント」にもしない。死ぬことも、生きることと地続きの「人間の営み」のひとつとして描く。辺見のモノローグで語られる「私たちは死ぬことの手助けをしているわけじゃない」という言葉どおり、ここは死ぬための施設ではなく、患者たちが最後の時間を自分らしく生きるための手助けをする場所だ。

 これこそが本当の「敬意」なのだ、と感じる。人に対して、命に対しての敬意があるからこそ、みさき総合病院・療養病棟のスタッフたちはプロの矜持を胸に、泰然と「できること」をやる。そしてその矜持は、本作の作り手たちの中にも存在するのではなかろうか。人と、人の命の尊さ、人が死ぬ様ではなく「生きる様」を描くために「できること」。そのベストを尽くした結果が『お別れホスピタル』という作品である気がしてならない。

 NHKドラマの名作『透明なゆりかご』(2018年)と同じく、沖田×華による同名漫画を原作に、安達奈緒子が脚本を執筆。チーフ演出を2作共に柴田岳志が務めた。2024年のはじめに、こんなに幸福な「原作とドラマ」の関係性を見せてもらえたことは僥倖の極みだ。原作に通底する「憐憫を排除した実直な作劇、そしてユーモアと人間愛」という哲学を余すことなく掬いとり、さらに映像ならではの美質を増幅させていた。

 主演・岸井ゆきのの演技力が、とんでもない領域に達している。一筋縄でいかない患者とその家族を演じる、泉ピン子、高橋惠子、木野花、根岸季衣、樫山文枝、丘みつ子、松金よね子、白川和子、きたろう、古田新太……一堂に会したベテラン勢の投げる球を、盤石の受容力でキャッチし、抜群のコントロールで投げ返していた。

 映像化の醍醐味として、筆者が殊更強く感じたのは「風」の表現だ。このドラマにはいつも、風が吹いていた。

 海沿いに建つ「みさき総合病院」の窓からは、風が立てる波音が響いている。辺見は心がざわめくたびに屋上へ出て、海からの風を浴びる。潮風を受けながら、医師の広野(松山ケンイチ)や、先輩看護師の赤根(内田慈)と語らう。

 本庄さん(古田新太)は自ら死のタイミングを決断して、潮風に抱かれながら屋上から飛び降りた。池尻さん(木野花)は風に舞うかもめの鳴き声と波音に送られて、逝った。

 思えば第1話冒頭のシーンも、冬の潮風に吹かれて朝陽を見ながら煙草を吸う辺見と本庄さんの姿だった。辺見の手から風が奪ったピザ屋のチラシを本庄さんが足で止めたことが、2人の会話のきっかけになった。

 挿入歌であるCharaの「小さなお家」が流れると、映像を介して観ているこちらの胸の中に大きな風が吹き込んでくるような感覚がある。誰もが抱く「死への恐怖」に、歌詞のとおり「大丈夫」と、なぜだかこのドラマは語りかけてくれる気がした。

関連記事