【ネタバレあり】『ボーはおそれている』徹底考察 アリ・アスターが描く“究極の恐怖”とは

 ボーは状況に流されるまま、その舞台劇のオーディエンスとなるのだが、同時に出演者となることも要請されている。演者と観客の立場を曖昧にし、一体感を醸し出すことが、この劇団の意図なのだという。そこでボーは、登場人物として数奇な人生を体験していく。その役柄の“性行為をすれば死に至る”という遺伝体質を引き継いでいるといった設定は、ボー本人のものでもある。つまり、ボーが演じる役柄とボー本人もまた、境界が曖昧になっているのだ。

 そんな奇妙な構図が醸成するのは、“自分の人生が本当に自分の意志によって切り拓くことができているのか”という不安だ。自分の人生が一つの寓話に変換されるように、何者かの設定したストーリーに、自分は操られているのではないのかという不穏な気づきが、ここで提示されるのである。

 ボーの人生を操る者……それは紛れもなく彼の母親であったことが、本作の物語が進むごとに明らかになっていく。ボーは少年時代から、一挙手一投足に至るまで、母親の強い影響下にあり、彼女が投げかけた言葉や考え方に支配されている。だからこそボーは、積極的に何かに取り組み、自分の意志で困難を打開するといった能力に欠けているのである。

 そしておそらく彼女は、彼女自身のネガティブな観念を、息子のボーが物心がついたときから、嘘を絡めるかたちで刷り込んでいたのだと思われる。そうやってかたちづくられた恐怖の感情の真相が、劇中の核心部分で表れるといった展開が、あのクライマックスのグロテスクな姿に表れているといえる。自由意志を奪い、支配による“精神的去勢”を施した結果が、“ボー”であったということなのだ。

 そして、これまでボーの周りにいた多くの人々が、じつは母親がCEOを務めていた企業の従業員だったことも判明する。それは、実家に飾られていた従業員たちの写真によって母の顔が象られているといった趣味の悪いアートによって示され、それはボーの生きる世界そのものが母親によってプロデュースされていたという象徴ともなっている。しかし問題は、そのような現実的には起こり得ない展開を描くことで、本作がいったい何を表現したいのかということである。

 考えてみれば、世の中のほぼ全ての人間は、誰かしら他の人間の影響を受けて育ってきている。多くの場合、それは子どもを育てる者となるだろう。そういった成長過程での学習や影響は、もちろん成長にとって必要なものだが、同時にそうやって固められた人格の核の部分が、子どもの今後の人生を決めてしまうことにもなりかねない。

 本作の物語が、ボーの混乱した精神世界だとすれば、母親から高圧的に人格を矯正された彼が、人生で経験する全て、世界そのものが母親の影響下にあるという妄想のなかにあったとしても道理であろう。アルフレッド・ヒッチコック監督の、ある代表作のラストシーンを想起させるように、ボーが生きている限り、母親の人格もまた彼のなかで生き続けていると考えられるのである。そして、それはボーの自立心や彼自身の選択を罰し続ける。それが、終盤の裁判のシーンに表れているのではないか。

 気が弱かったり、自信がなくなったり、自己肯定感を持てない性格になってしまう原因に、成長家庭での親との関係に問題がある場合があるということは、複数の研究や、近年MRIを使った脳機能における先端的な実験によっても明らかになってきている。子どもが成長して中年以降になっても、そういった経験は影響を及ぼし続けることになる。だからこそ子育てでは、暴力を振るわないことはもちろん、子どもの人格を否定するような言動をしないように気をつけなければならないと、現在では考えられるようになっている。

 この構図は、程度問題はあるにせよ、誰にでも適用できる話である。自分の人生が、自分以外の人格によって支配されている……“人生が自分のものではないのではないか”という不安や気づきは、ある意味で“死の恐怖”を超えた、“究極の恐怖”に接続されているのかもしれない。それがどんな観客にとっても否定しきれないという点で、本作は“極点に達した「嫌さ」”を提供していると思えるのである。

 しかし、あのアリ・アスター監督が、だからといって“子育ての倫理”を説いているというのは、納得しかねるところがあるのも正直なところだ。この作品が暗示した構図は、もっと違う分野にも照射されていると見るべきなのではないかと感じられるのである。そのように考えたときに思い至るのは、アスター監督がさまざまな映画作品に影響を受けていることを公言しているという事実である。アスター監督だけでなく、多感な時期に観た映画をはじめ、さまざまな創作物やアート作品などが、その作家をかたちづくることもまた、よく知られている。

 人生も半ばを過ぎたと考えられるときに、自分の青春時代に繰り返し聴いていた音楽や、観ていた映像作品、または小説や漫画などをあらためて鑑賞してみると、現在までの自分の趣向や拠りどころにしているものが、驚くほどこの“原点”を核としていることに気づくことがある。そうしてみると、果たして“自分”というものが存在しているのだろうかという思いに駆られることがある。自分の肉体や精神は単なる“器”に過ぎず、何らかの意思を代理しているだけなのではないか。

 このような人間の不安は、ギリシアの哲学者プラトンが提唱した「イデア論」に繋がるところがあると考えられる。これは簡単にいえば、永遠の“知”であり“美”という絶対的な存在が、人間の外部に存在するという哲学である。人類が生み出す知識や芸術は、その絶対的な存在の模倣に過ぎないというのだ。そうとらえるならば全てのアーティストたちは、潜在的にそんな絶対性の再現を目指し、少しでも近づこうとしながら、不完全なものを作り続けているということになるだろう。

 こういった芸術論を、本作『ボーはおそれている』に適用するならば、ボーはアリ・アスターをはじめ全ての作家を代表する存在であり、母親というかたちに象徴された「イデア」を必要としながら、根源的な意味で支配されているという構造を描いたことになる。それは、アスター監督自身の物語でもあるはずである。

 常に“不安”をテーマにしてきたアリ・アスター監督は、ここにきてジャンルを飛び越えて娯楽性を一部犠牲にすることで、新たなアプローチに挑戦した。そして、商業的な成功などとは別の部分で、これまでの自分の足取りや作家性を、大きな芸術史のスケールを暗示させながら、まさに“不安”によって、つかみ得ることに成功した、といえるのではないだろうか。そして、そんな達成もまた“本当の自分自身ではないのかもしれない”という不安のなかにまた沈んでいくように見える結末の光景が、彼らしいのである。

参照
※ https://time.com/6272355/beau-is-afraid-explained/

■公開情報
『ボーはおそれている』
全国公開中
監督・脚本:アリ・アスター
出演:ホアキン・フェニックス、ネイサン・レイン、エイミー・ライアン、パーカー・ポージー、パティ・ルポーン
配給:ハピネットファントム・スタジオ
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公式サイト:https://happinet-phantom.com/beau/
公式X(旧Twitter):@beau_movie

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