『彼方の閃光』鮮烈な印象を植え付けるショットの数々 モノクロームで繋がる現在と過去

 ほぼ全編がモノクロームの画面で展開し、上映時間は169分というなかなかの長尺。そのなかで描かれるのは、ひとりの青年がたどる長崎と沖縄の戦争の記憶。これだけ聞くと、『彼方の閃光』という作品は、観客のターゲットがかなり絞られた敷居の高いアートフィルムのように思えてしまうが、半分そうであって半分そうではない。

 娯楽映画とは程遠い作風であることは紛れもない事実ではあるが、作り手の主張が明確に存在するアートフィルムのルックを徹頭徹尾保ちながら、日本で生きる誰にでも通じるような歴史に向き合い、眞栄田郷敦演じる主人公と共に学び、ゆったりと考える時間を与えられる。劇中に「わかるとかわかんないとかじゃなく、お前自身がどう思うか」という言葉が出てくる。それに則って言えば、アートフィルムであり青春ドラマであり、あるいはドキュメンタリーのような、懐かしみを帯びた旅情映画のような顔も持ち合わせた映画だ。

 作品の冒頭はおよそ5分間の暗闇から始まる。決して上映素材の故障ではないので、誤って映画館のスタッフを呼びに外へ出ないように注意してほしい。そのシーンをもって表現されるのは、主人公の少年時代、視力を失った彼の闇に包まれた、音だけの世界。それはまるで、全編青色の画面で展開されたデレク・ジャーマンの遺作『BLUE』を彷彿とさせるような、作り手側と劇中の人物、そしてスクリーン越しにそれを見つめる観客側の視界の共有に他ならない。

 まもなく主人公は目の手術を受け、それに成功して光を取り戻すことになるのだが、その世界に色彩はない。“青”という色がどういう色なのか。人づてに言われた情報だけでは到底分かりえないのが、色というものの不確かさであり、ここにこの映画がモノクロームで描かれる理由のひとつがあるのは明白だ。これは色盲の登場人物の見える世界に観客をいざなったフランシス・フォード・コッポラの傑作『ランブルフィッシュ』と類似した表現手法であり、ようやく光を得たもののモノクロームの世界のなかでもがく主人公の名前が“光”というのはなんという因果であろうか。

 モノクロームの画面で展開する理由はそれだけではないだろう。むしろ、主人公との視界の共有という表層以上の、もっと深層的な意味合いが込められていると、作品が進むにつれて気付かされることになる。光が長崎と沖縄の地に強烈に引き寄せられていく、いわばストーリーを動かす役割を果たしているのは写真家・東松照明の写真集である。戦後10数年が経ってもなお原爆の爪痕が色濃く残るなかで、復興を願う長崎の人々を記録した「長崎11:02 1945年8月9日」を手に、光は衝動的に長崎へと向かう。そして孔子廟で友部(池内博之)という自称革命家の男に声をかけられ、それを機に友部のドキュメンタリー映画製作に立ち会うかたちで戦後70年以上が経っても消えることのない戦争の傷跡を辿ることになるのだ。

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