『ゴジラ-1.0』徹底考察 第1作『ゴジラ』や『シン・ゴジラ』、山崎貴の作家性から紐解く

 とはいえ、放射の熱によって頭部から首筋が焼けて穴すらできてしまうように、自身の身体をも破壊してしまう、火炎を吐いた後の描写については、その威力の凄まじさを表す上で素晴らしいといえるし、その被害が、まさに日本人にとって原爆投下を想起させる悪夢として表現された点についても印象的だ。第1作において「もうすぐ、お父ちゃまのところへいくのよ」と戦争で夫を亡くした女性が子どもとの死を覚悟する描写同様に、戦争の被害の記憶とのリンクを見せることで観客の心を乱すという意味において、出色の出来だと思える。

 また、これも第1作で勇敢にも現地で実況するリポーターが奮闘するシーンを、リポーター本人の視点からディザスターとして捉えた演出にも強い臨場感がある。小市民の目からゴジラの破壊の恐怖を描くというのは、これまでのシリーズでもおこなわれてきたが、本作は近年最もそこにフォーカスし、その迫真性を表現し得ているといえよう。そして、このような「ゴジラ」の恐怖表現は、ただアクションとしての表面的なものでなく、ストーリーやテーマに関連したものであるともいえる。

 「ゴジラ」は、その作品ごとに“何らかの象徴”として表現されてきた。例えば第1作では、アメリカのビキニ環礁における水爆実験から、ゴジラというモンスターが創造されるに至っている。この水爆実験では、日本の遠洋マグロ漁船が被害に遭い、乗組員が被ばくし死亡したという「第五福竜丸事件」が、劇中でも登場する「原爆マグロ」という言葉とともに、戦後復興を遂げつつあった日本社会に再び恐怖を思い出させることとなった。だからこそ、そこにフォーカスした第1作『ゴジラ』は、国民的な作品としても当時衝撃を与えることになったといえるのだ。つまり「ゴジラ」とは、もともと非常に政治的、社会的な存在として生まれているのである。

 それでは、本作における「ゴジラ」とは何なのか。それは、戦争への日本の人々のトラウマであり、主人公である帰還兵、敷島浩一(神木隆之介)個人の罪悪感と恐れの象徴であるといえるだろう。敷島は、敵の戦艦に命を捨てて戦闘機ごと体当たりをする特攻作戦に参加するはずだった若い日本兵だったが、死にたくないという思いから機体に不調があると偽って作戦を離脱していた。さらに島の基地でゴジラの襲撃に遭い、恐怖から機銃掃射をおこなえずに整備兵たちを死なせてしまうのである。

 この一連の出来事は、生還して日本に帰ってきてから、彼の精神を蝕むこととなる。第一作が戦争によって命を落とした人々への罪悪感が生み出した幽霊のようなものだとする解釈が存在するように、死者に対する罪悪感であるところの「ゴジラ」を、より個人的な問題へと集約させたのが本作のストーリーだといえるのだ。

 その心の傷は、戦後の混乱のなかで出会った典子(浜辺美波)や、彼女が連れていた少女、そしてともに機雷除去の仕事をする仲間たちとの関係によって、少しずつ生きる力へと変わっていくことになる。このあたりの展開が、まさに山崎監督らしさといえるのではないか。『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズや『STAND BY ME ドラえもん』シリーズが代表するように、これらの作品では、漫画家・西岸良平や藤子・F・不二雄が創造した原作の要素のなかで、泣かせる人情ものとしての側面を強調して映画化していた。そう考えれば、本作もまた第1作『ゴジラ』という原作を、同じような路線に乗せたものになったといえるのではないか。

 このような山崎監督のシリーズ作品が、多くの観客から支持を集める一方で、拒否感を覚える観客も少なくないのは事実だ。あまりにも表現が直接的で、“泣かせ”に走っている姿勢があからさまであることから、途中で冷めてしまうというのである。そして、そういった作風が本作でも踏襲されていることを考えれば、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズが好きか嫌いかというところが、本作のストーリー部分の評価を左右することになるだろう。

 むしろ筆者が気になったのは、そういった「感動ストーリー」に、「特攻作戦」という現実の悲劇を落とし込むことへの危うさについてである。本作を最後まで鑑賞すれば、そのような個人の人権を考えない作戦に対する批判的な意見が組み込まれていることが分かる。戦争で生き残った兵士たちが集まって、ゴジラと戦う覚悟を決めた人々が戦中の価値観を否定しながら、一人の犠牲者も出さないことを目指し、生還を前提とした作戦を立てることとなる。そういったストーリー設定は、民主主義国家となった日本が、本当の意味で復興する、新たな価値観として描かれるのだ。

 それ自体は、常識的で真っ当な考え方だといえよう。国民のための勝利を国民の死と引き換えにすることは矛盾の極みであり、そのような描写を、観客が涙を流して消費するといったような構図は、グロテスク極まりないものだ。もしも敷島が犠牲になって平和がもたらされるという結末を迎えたら、それはあまりにもひどい内容だと言わざるを得なくなってしまう。だからこそ、ラストの展開は、胸を撫で下ろすような着地を迎えたといえるだろう。

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