映画『ゆとりですがなにか』岡田将生×松坂桃李×柳楽優弥の変わらない“寛容さ”に涙
10月13日に公開された『ゆとりですがなにか インターナショナル』は、2016年に日本テレビ系列で放送されたドラマを映画化したもの。放送当時、大きな話題を呼び、2017年には2週にわたって特別編が放送されるほどファンも多い今作が、なんと6年の時を経て、映画として帰ってきたのだ。
人気を博したドラマは、最終回を迎えたとき「映画化待ったなし!」「続編を!」と続きを望む声が多く見受けられる。ただ、それも大概、ドラマシリーズが終わりを迎えた瞬間が1番熱量が高く、次点で動画配信サイトで限定配信がされたとき。大抵の場合、6年間も「続編を!」と声高に叫ぶ人はそうそういない。
それは作品に飽きてしまったと言うよりも、「現実問題難しいんじゃないか」とか、「ここまで待ってもないということは、きっとないんだろう」と思ってしまうからだ。
特に『ゆとりですがなにか』に関しては、主要キャラクターを演じる3人が岡田将生、松坂桃李、柳楽優弥と、揃いも揃って主役を張る多忙な俳優だということをファンも把握しているからこそ。かくいう作品の1ファンである私も「続編があったら嬉しいけど、きっと無理でしょ」と思ってしまっていた。
それに難しいと思っていたのには、もう1つ理由がある。筆者自身、1991年生まれでゆとり世代ど真ん中。ドラマ放送当初は、社会人になりたてということもあり、このドラマのキャラクターたちに自分自身を重ねていた。
しかし、6年も時が経てば自分が“ゆとり”扱いされることがほとんどなくなり、仕事の場では新人でもなく、ベテランでもない曖昧な立場に。そんな自分が、いや、ここは主語をあえて大きく、ゆとり世代の私たちが今、この時代に“ゆとり”を題材にした、このドラマに共感できるのだろうかと少々不安にも思ってしまったのだ。
ただ、映画を観て、私は気付かされたことがある。結局、何年経とうと“ゆとり”は“ゆとり”なのだ。人はそう簡単には変わらない。
時代は多様性が重視され、コロナ禍も挟みオンラインでの交流やテレワークが当たり前の時代に。社会的にみれば大きく変わったように思えるが、そこを生きる我々は何一つ変わっていなかった。
考えてみればゆとり世代とは、詰め込み型の教育ではなく、多種多様な経験を通して人間性を豊かにすることを目的とされた教育を受けた世代。それゆえ、映画の中での彼らは6年前と相も変わらず、うまくいかない毎日の中でも自分の行動の意味を考えていた。「これはこういうもんだからこう」「つべこべ言わずに行動しろ」そんなこと、何歳になっても通用しないのだ。
だからこそ、映画の中での坂間正和(岡田将生)、山路一豊(松坂桃李)、道上まりぶ(柳楽優弥)はドラマの時と同様、たくさんの会話をする。時代がLGBTQだから、人種も多様性だからとの理由だけで山路はマニュアル通りの授業をしない。自分の毎日を考えて、納得感ある答えを出して、自分の言葉で授業をする。
2児の父となり、妻・茜(安藤サクラ)との関係性が冷え込みつつある正和も同様。なぜ冷え込んでいるのか、どうしたらいいのか。不器用ながらも茜に対して真摯に向き合おうと奮闘するのだ。その中で、まりぶだけは相変わらずマイペース。中国から帰ってきて、それなりに大変なはずなのにどーんと構える姿が相変わらずかっこいい。これこそ同作の世界観だと感じた。