チリの独裁者ピノチェトが吸血鬼だったら…… パブロ・ラライン『伯爵』の見事な風刺精神

 船と吸血鬼……この組み合わせは、ブラム・ストーカーのホラー小説『吸血鬼ドラキュラ』から、印象深いものとなってきた。本来の住処であるトランシルヴァニアの山中から、イギリスの港にドラキュラが船で潜入することで、小説が最初に出版されたイギリスの読者に、近くに忍び寄ってくる恐怖を植え付けたのである。

 そんな組み合わせを映画で再現したのは、F・W・ムルナウ監督の映画史上の重要作『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)だった。ドイツの映画であるだけに、ここではイギリスではなくドイツへと、吸血鬼の行き先が変更されている。のみならず、吸血鬼の恐怖と、外国から船が運んでくる伝染病の媒介への不安が、ここでは強く印象づけられている。

 『吸血鬼ノスフェラトゥ』は、もちろん本作の映像表現や哲学的な面にも影響を及ぼしているように、これまでの数々の吸血鬼映画の土台となっているところがある。それらは、吸血鬼という題材を通し、人々の恐怖や不安を表すという共通点がある。伝染病の猖獗への嫌悪をさらに強調した、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『ノスフェラトゥ』(1979年)も、タイトルから予想できるように、当然その一つだといえる。

 そんな『ノスフェラトゥ』では、トランシルヴァニアの吸血鬼がバレバレの嘘をついて、血を吸うために旅人を引き留めようとする姿が、ある種のコントのようなユーモラスな表現で描かれているように、吸血鬼は映画のなかでコメディアンとしてのポテンシャルを持っているといえる。

 残忍な暴力描写をとり入れながら、同じようにユーモアを随所に散りばめている本作『伯爵』は、このような『吸血鬼ノスフェラトゥ』や『ノスフェラトゥ』などの既存の吸血鬼映画を当然踏まえながら、権力者の飽くなき欲望と、それがどの時代でも絶えることがない陰惨な歴史を、風刺的に吸血鬼の物語に重ねてみせているのである。

 ピノチェトは大統領時代、共産主義者と見られる人々を大勢処刑し、新自由主義経済を推し進めていったが、その政策の実態は、一部の権力者、富裕層に富を集中するという、弱者をいたぶるものであった。また劇中では、個人的な利益のために軍の資金を横流ししたという一族の犯罪も示唆されている。そんな権力者の罪を“吸血”という行為に象徴させた風刺の行き着く先は、本作の終盤に出現する“意外な登場人物”の存在によって、さらにはっきりすることとなる。この登場人物もまた、庶民や子どもたちの権利を奪ってきた人物として知られている。

 このように本作は、貧富の格差がより顕著なものとなっている現代の問題を描きながら、ピノチェトによるチリの暗黒時代を飛び越えて、どの時代、どの場所にも存在する、富や権力に固執する者たちの終わりのない簒奪を、永遠の命を持つ吸血鬼というかたちで、見事な撮影と風刺精神によって表現した力作だといえる。

 背景の最低限の知識や、政治に対する批判精神を観客に要求する部分があるので、万人が楽しめる娯楽作であるとは言い難い。しかし、だからこそそういった社会の醜い構造を、実在の人物を怪物として描くというリスクに踏み込んでまで、戯画化した内容は貴重だといえる。ここまでのことがやれる作り手が、どれだけいるだろう。

 この作品の持つ政治的傾向に賛同するかどうかはともかくとしても、本作『伯爵』が映し出す社会の姿を、そして歴史の姿を直視することで、自分たちの立っている場所をまずは見つめ直すことが、現代を生きる我々にとって、いま重要なことだといえるのではないか。

■配信情報
『伯爵』
Netflixにて配信中
Pablo Larraín / Netflix ©2023

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