宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 最終回『君たちはどう生きるか』
死生観を巡るファンタジー
本作は、現実のリアルそのもの、悲惨さや残酷さそのものを描くことを回避し、代わりにファンタジーとしての役割をこそ、敢えて果たそうとしているのだと思われる。では、そのファンタジー=無常観に代わるものは、一体どういうものだろうか。それは、死生観を巡るファンタジーである。
繰り返すが、『千と千尋の神隠し』以降の宮﨑映画は、「子供のため」と「老人のため」を両立させた、異界、死生観の表現であった。『君たちはどう生きるか』も、若い者たちに「これからどう生きるか」を教えるという公的な目的と、死に向かっていく老人の私的な物語とが入り混じりった物語だった。本作では、主人公たちが地下のファンタジー世界に行ってからは、「異界」の表現が全面展開している。『崖の上のポニョ』の際も、絵コンテ時点では、結末近くの老人ホームでの描写がもっと長かったようで、それを描きたいという意図は前々から持っていた。
鈴木敏夫は、『崖の上のポニョ』を作っていた際の宮﨑の発言と様子をこう紹介している。
「『俺さ、いつか死ぬじゃん。死んだら亡くなったお袋に会うよね』って。『最初に何て言ったら、喜んでくれるかな』と言うわけですよ。映画の中で、主人公の少年が亡くなったお婆ちゃんにあの世で会うシーンがあるんです。そこでのセリフを、彼、ずっと悩んでいましたよ」(鈴木敏夫『禅とジブリ』p38)
宮﨑作品における「異界」の表現が、静止画的であることは前回に触れた。本作で言えば、海の上に船が並んでいるシーンがそれだろう。空と地上とが水平線に接し、その境界線を走っていく、という『千と千尋の神隠し』の絵が典型である。だが、本作において、異界や生死の入り混じりの表現は、立体的・動的になるという新しい展開を見せる。墓の場面では、紙垂のようなものがぐるぐると回っている。輪廻転生する魂の象徴であろう「ワラワラ」は螺旋を描きながら上昇していく。平面的な悟りの境地のようではなく、動的なダイナミズムとして表現するところが、アニメーションの面目躍如というとこだろうか。ここにおいて、「宮﨑アニミズムⅣ」と「宮﨑アニミズムV」の差異が見えてくる。それは動的なそれであり、輪廻転生、死と新生のダイナミズムへと変化する。
悟りきった清浄な境地=静止ではなく、対立や葛藤や矛盾のあるダイナミズムとして、死(と生)を捉えなおすというのは、『風の谷のナウシカ』から続く、宮﨑のアニミズム思想である。理想的な世界ではなく、汚れて矛盾して滅茶苦茶な自然や生そのものを肯定しようという立場である。「深い」「生命への根源への問いに発した」ニヒリズムであり、アニミズムのようなものがここにある。悲観し、絶望した末に、もう一度人間や生命を信じ直そうとする意志の表現でもある。
それは、宮﨑の持っている死者観と繋がりを持つだろうし、彼の考えるアニミズムとも関連しているだろう。宮﨑はこう言っている。
「僕もしょっちゅう散歩しています。その途中、近所にあるお墓にいって、両親をはじめお世話になった人を拝むんです。会ったことがなくても、書かれたもので、僕が目を開かされた方々のことも拝む」(『天才の思考』p418)。
それに対し、高畑勲は「それは敬虔な。僕はそんなこと考えたこともないよ。だってそういう人たちは、別に宮さんのために書いたわけではないでしょ」(『天才の思考』p418)と対照的な発言をしている。たくさんの書物に対する挨拶を行い、それらを「新しく生かし直す」本作には、その宗教観、死生観の表現という側面があるのではないか。『君たちはどう生きるか』のファンタジーパートの登場人物には、高畑勲や、徳間康快らの面影があるという解釈があるが、おそらく恩義のある者たち全て、直接的に関わったことのない人たち全ての「霊」のようなものが仮想的に蘇る空間として作品空間が考えられているのではないか。これが「宮﨑アニミズムV」なのだが、これが破局に向かうかもしれない未来において、どのような心理的な機能を果たすだろうか。
死と苦しみの時代に心を穏やかにするために、生と死の輪廻転生という「物語」は役に立つかもしれない。それは、死へのハードルを心理的に下げるリスクはあるが、過酷な死と破壊の時代に生きて行くための心理的な覚悟と悟りを齎してくれるものかもしれない。しかし一方で、死後の世界の方がいい世界では、死んでもいいのでは、戦場に行ってもいいのでは、という考えを促す可能性もある。環境危機による災害も「自然」で、死んでもあの世があるから何もしないでいいや、となってしまう可能性もある。
『君たちはどう生きるか』の作業中に、プロデューサーの鈴木敏夫は、禅宗の僧侶たちと対談する本『禅とジブリ』を刊行している。鈴木敏夫は、企画、絵コンテなどに関わっているし、宮﨑と対話を繰り返しているので、彼の考えは『君たちはどう生きるのか』の内容にも影響しているのだと思われる。鈴木は、新海誠監督の『君の名は。』に触れて、本作の美しすぎる背景は「本物を観察しながら描き、なおかつ本物じゃない。つまり『あの世』だと思ったんですよね」(『禅とジブリ』p33)と発言した上で、このように言っている。
「あの映画が訴えていることは、『この世はつらいけれど、あの世へ行けば幸せ』、僕にはそう見えてしまったんです。もしかすると、そういう考え方が日本だけでなく世界中に蔓延しているんじゃないかな、っていう気がして。もう少し現世に目を向けたらどうかと思うのですが」(『禅とジブリ』p34)
同じことは、宮﨑作品にも言える。本物を観察して、それをより美しく描いた部分が、『となりのトトロ』などにはあったからだ(しかも、「オバケの映画」だと言っているのだ)。新海誠の『すずめの戸締まり』は、「あの世=アニメ世界」に行くのではなく現実を生きようというメッセージを発していたが、奇しくも『君たちはどう生きるか』と重なるメッセージを発しているようである。
つまり、『君たちはどう生きるか』は、死後の世界への憧れと、それを否定し現世を生きる覚悟の両方が示されており、矛盾と葛藤が構造化されていると言える。それは、複数人が内容に影響を与えるという作り方に由来する部分もあるだろう。そのような両義性が、破局の時代を生きるためのファンタジーとしての部分にもあるのだ。静止した結論ではなく、動的な葛藤を投げ出すことこそが、「生きる」ということと重なる、宮﨑映画のメッセージであろう。
継承することと、継承しないこと
最後に、『君たちはどう生きるか』の主人公は、宮﨑駿の分身のような「夢の王国」の王に、ファンタジー世界を継ぐように言われ、それを拒絶する。この理由を考えることで、連載の結論を出そうと思う。
十二個の石を組み立てる――12とは、宮﨑が作ってきた映画の数だが――ことで、世界の平和を維持し、人間を穏やかなものに変えようとしてきたと王は言う。これはエリザベス・グージ『まぼろしの白馬』からの引用だろう。宮﨑は「ここに出てくるヒロインは、自分の力で世界のバランスをととのえようとする。そうすることで世界がまるく、調和していく。こういう感覚は必要なんだと思いましたね」(『本へのとびら』p82)と言っている。
映画を通じて、世界の争いを防ぎ、少しでも平和なものにするべく、人間の心を穏やかなものにするべく試みてきた。そう宮﨑は自身の創作の意図を語っているのかもしれない。しかし、それでも、主人公は、継がない。何故か。新しい環境で、新しい時代を生きるのは彼自身であり、彼自身が新しく未知の環境でその都度創造的に判断していかなければいけないのが、この先の人生だからだ。
実際、宮﨑に反論しネットやSNSの共同体を肯定しようとした新海誠と言い、宮﨑が否定し『風の谷のナウシカ』で死なせたAI・人工生命体の問題を引き受け『シン・仮面ライダー』で展開した庵野秀明と言い、「ポスト宮﨑駿」たちは、ある部分は継承し、ある部分は否定・批判している。
「次の新しいファンタジーをつくるのは、僕がいま本選びで戦っている少年、彼らだと思います。/彼自身がそのままやるかどうかは別にして、彼らがいま何を感じて、これからどういうものを見ていくか。それで何かをつくるには、やっぱり10年かかる。/彼らが生き延びたら、彼らの世代が次のものをつくるんです」(『本へのとびら』p167)
戦争と災害と破局の暗い時代が本当に訪れるかどうかなど、誰にも分かりやしない。穿った見方をすれば、「子供向け」と「老人向け」の話を両立させる物語を成立させる筋の上での口実として、そのような未来予測が要請されてきている側面もある。とはいえ、努力によって破局を避けうる可能性を信じようとする気持ちへも本作は開かれているのではないだろうか。非を認め、卑怯な嘘を辞め、争うのではなく「友達」を作り、人の心を穏やかにすることで調和を取り戻していき、戦争や環境破壊を食い止める可能性は、決して否定されていない。現実に立ち向かう勇気によってこそ、その可能性が開かれる。
宮﨑駿のアニミズムの意義も、ここで改めて確認しなくてはならないだろう。その核心部分は、理想や理念や、この世界を超越した何かや、この世界から離脱した「異世界」「バーチャル」を重視するのではなく、この、長く続いてきた物理宇宙の中で生まれ進化してきた生物たちに対する畏敬の念と愛情を持つことである。生命たちは、次々と変わっていく新しい環境に適応し、創造的に進化し高度化し多様化してきた。この運動それ自体を信じよう、(それを自身のアニメーションで促進させよう)ということである。それは、この世界を作ってきた全ての失われた生物や祖先への畏敬の念と感謝と、彼らが今も共存しているという霊的感覚と、この世界を継承し存続させようとする使命感とが入り混じった感覚でもあるだろう。続いてきた世界と生物が尊いものであり、狭い人間の頭を超えた凄いものであるはずだという圧倒的な畏怖の念そのものである。それは、今生きている人間と生物、存在し続いてきた世界を肯定し、愛し、そのために尽力しようとすることと繋がっていくだろう。
「宮﨑アニミズム」は「I」から「V」まで、変化し葛藤し自己否定し矛盾しながら展開してきた。それは、アニミズムの可能性と危険性についての検証と葛藤のプロセスである。それら全ての過程において、鼓舞しようとしてきた感覚は、上述のような霊的な息吹なのではないか。映画やアニメーションを通じて、慈悲深く次世代へのメッセージを伝えようとする思いやりのあり方こそが、世代を超えた感謝や継承という、アニミズムや、素朴な神道の考え方に繋がっていき、そこへの気づきによってこの世界への愛着を回復し、この世界を愛し引き受ける覚悟に繋がっていくような構造になっている。これが、宮﨑駿の映画が伝えようとしてきたことである。
もし、世界の全ての人が、穏やかで美しく調和した生を送れるようになり、自然や世界を愛し、生命を愛し、戦争を厭い、皆が仲良くなれる世界を願う心を持つ日が来たらどうなるだろうか。世界は、今より良い場所にならないだろうか。フィクションは、そのような可能性に開かれていないだろうか。訪れるかもしれない危機や破局を、起きないようにする、緩和することは、おそらく不可能ではないのだ。
そう受け取りなおした上で、私たちはこれからどう生きるか、自分たち自身の答えを創造していかなければならない。簡単な道ではない。でも、歩くしかない。
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■公開情報
『君たちはどう生きるか』
全国公開中
原作・脚本・監督:宮﨑駿
主題歌:米津玄師「地球儀」
製作:スタジオジブリ
配給:東宝
©2023 Studio Ghibli