『ニモーナ』が稀有な成功作となった理由 作品に投影された“切実さ”と突出した“文学性”

 本作で製作を務めている、1991年生まれのND・スティーブンソンは新世代の才人で、多様性を見事に反映したアニメシリーズとして話題になった『シーラとプリンセス戦士』の中心クリエイターでもある。『ニモーナ』は、そんなスティーブンソンが美術大学の在学中に創造したキャラクターなのだという。

 スティーブンソンは、自身が「ノンバイナリー」(性自認が男女という区別に当てはまらない)だと表明していて、ADHD(注意欠如・多動症)だとも語っている。この背景から、ニモーナというキャラクターは、スティーブンソンの自身、もしくはこれまで会ってきたマイノリティを投影した存在であり、その悲しい過去にも自身の幼少期からいままでの経験が反映されているのだと考えられる。

 バリスターとコンビを組んで、多数派の価値観や社会の保守性と戦うニモーナは、過去に起こった悲しい出来事と向き合うことで、感情のコントロールができなくなっていく。我を忘れて叫び声をあげるニモーナ……そこにあるのは、“闇の感情に支配された悪役”といった、アニメーション作品によくある敵キャラクターとは本質的に違ったものだ。その叫びはマイノリティの心からのものであり、ニモーナの死へと向かう衝動は、弾圧を受けたり“怪物”として扱われることを苦にして、自ら命を断つまでに苦悩する人々の心情を表している。

 われわれは、アニメーション大作のスペクタクルを目の前にしたとき、どこか冷めているところがないだろうか。闇の感情に突き動かされた悪役が、主人公とのバトルによって敗北し、後悔しながら、あるいは改心して塵になり消えていく……。そんなシーンを見て、これが現実にあり得る物語だと思うことは、そうそうないはずだ。なぜならこのような描写は、多くのクリエイターの手によって何度も何度も繰り返しコピーされてきたものであり、作り手も受け手も決まりきった約束として認識しているからだ。ましてや悪役の心情に過度に寄り添うことは少ないだろう。

 しかし本作で描かれる悲劇は現実に存在し、日々を生き延びる渦中にある当事者の手によって送り出されている。そこには間違いなく、“魂”が込められているのである。とはいえ、本作を評価する人々みんなが、製作者の背景を知っているはずはない。それでもニモーナの悲痛な思いが多くの鑑賞者に伝わったというのは、そこに至るまでに提示される本作の設定や演出、物語が、観る者をただ漠然と感動させるようとするのではなく、その全てで“生きた真実”を伝え続けようとしているからなのではないだろうか。

 本作はピクサーやイルミネーション作品、近年のブルースカイ・スタジオなどと比べると、CGの完成度の点では一段も二段も落ちるところがあると感じられる。それは製作の経緯から致し方ない部分もあるだろう。だが作品に投影された切実さと、人間の心情をつかみ出そうとする文学性には突出したものがあり、その面において他作品を凌駕することによって、第一線の作品群と並び立てているのである。

 しかし、ニモーナの悲痛な姿を見て、そしてそこに一つの真実が込められていることを知って、いったい何を思えばいいのか……もしそう感じたのだとするなら、破滅へと進もうとするニモーナを必死に押しとどめようとするバリスターの姿に注目してほしい。バリスターがゲイだと示されながらも、それを公にしていない描写からも分かるように、彼もまた人種や階級とともにさまざまな偏見を受けてきた人物だ。そんなバリスターだからこそ、差別の内容は違えど、ニモーナの心情に最初に寄り添えることができたのだと考えられる。つまり、ここで表現されているのが、被差別者同士の“共闘”や“相互理解”の重要性なのである。

 社会をより多くの人にとって住みやすい場所にしていくためには、互いを尊重することが不可欠になる。他者が何を思うのか、何をしてはいけないのか、想像力を働かせなければならない。そしてそれは少数者同士の連帯だけでなく、多数者の側からも可能なはずだ。自分たちと異なる特徴を持った者を怪物として扱うような、心ない言葉がニモーナの心を突き刺したように、一つの不用意な発言が、人の命を奪うことさえある。それが分かってさえいれば、バリスターが握っていた剣を捨てて手を差し伸べたように、さまざまな立場の人々が他者を思いやることができるはずなのだ。

■配信情報
『ニモーナ』
Netflixにて配信中
Netflix © 2022

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