『劇場版アイドリッシュセブン』から“推し”文化を考える ライブアニメが持つ演劇性
「推し」文化の本質を浮き彫りにするメディア体験
いずれにせよ、以上のような現代の「推し(活)」の構造や本質を、『劇場版アイナナ』の示すさまざまなイメージはほとんど正確になぞっているように思えてくる。まず、そのコンティニュイティとアングルを通して全体的に強調され続けるキャラクター(アイドル)とファン(オーディエンス)との双方向的で「密着的」な「関係性」(コミュニケーション)である。ライブの合間ごとに真っ暗い観客席とオーディエンスの歓声が示されると、映画館の観客=ファンたちは、その匿名的で非人称的なスクリーンの観客たちに同一化するような感覚を味わう。さらに、ほぼ正面の角度からアイドルたちにまなざされ、MCで声をかけられると、私のような観客でも、この作品がスクリーンの映像だけでは収まっていないーーまさに自分たちの存在の参加を不可欠の要素とするという確信めいた奇妙な気持ちを体験する。
このことは、まだうまく言語化できないが、しかし、通常の映画やアニメの物語への感情移入(同一化)とはまた決定的に異なる、独特の「同一化」の経験に思える。何にせよ、ここには「推し」の感性や経験の雛型が具体化されて浮き彫りになっているといえる。そして重要なのが、だからこそというべきだろうか、それが確かに一瞬の満足感(快感)をもたらすということだ。
『劇場版アイナナ』のようなアイドルアニメ=ライブアニメは、以上のような「推し」文化の検討にも多くの示唆を与えてくれる。
『劇場版アイナナ』に見るタッチパネル的な性質
さて、最後にこれに加えて、冒頭でも述べたように、映画批評の知見からこのような作品(コンテンツ)に対してどのようなことが言えるかを示唆して終わりたい。
『劇場版アイナナ』をはじめ、先ほど挙げた『劇場版うたプリ』、あるいは過去に私自身も論じたことのある『KING OF PRISM by PrettyRhythm』(2016年)などのアイドルアニメのようなコンテンツやその上映スタイルを、これまでの伝統的な映画批評の枠組みや語り口で評価したり論じることは、かなり難しいだろう。おそらく今回の『劇場版アイナナ』のプロモーションが企図したように、確かにこれらの作品は形態としては映画作品の姿を取っていたとしても、もはや本質的には「映画」ではなく、それとは別の表象システムを持った存在だと考えたほうが適切だろう。
結論をいうならば、『劇場版アイナナ』のようなコンテンツは拙著『新映画論 ポストシネマ』(ゲンロン)の第8章で用いたイディオムを使えば、映画の「スクリーン」とは異なる、パソコンやスマートフォンの画面に近い「インターフェイス/タッチパネル的画面」の特徴を備えたものである。
そもそも「推し」的な感性や行動様式とは、ファン=主体が憧れの対象=客体であるスターの領域に対して接触的で競合的に参与できると言う指向を持つものだった。それは、メディア的類比に置き換えれば、「観客とイメージのあいだに距離があり」、「観客にとって『受動的で視覚的な平面でしかない』」映画のスクリーンではなく(前掲書、345頁)、マウスや指で操作したり直接触ったりすると、画面が可塑的に変わるインターフェイスやタッチパネルの特徴をなぞるものでもある。すなわち、「推し」を視覚的に体現する『劇場版アイナナ』の映像は、同時に、映画館のスクリーンではない「タッチパネル的」な性質を内包しているからこそ従来の映画の評価機軸に収まらないのだ。