芸術作品と家庭ごみの境界線は? “質感”の映画『道草』に込められた俳優陣の工夫
芸術作品の評価ほどわからないものはない。『道草』の主人公・道雄(青野竜平)もまた、そのせいで葛藤を繰り返している。しかし『道草』を鑑賞したひとまずの所感として断言できることがある。映画において、これほど「質感」をあらわにできるということは、特に絵画の美的価値を巡るこの『道草』にとってとても重要であり、作品全体の説得力をしっかりと支えている、ということだ。
『道草』は、ごみ収集のアルバイトをして生計を立てながら絵を描いている道雄の物語。無名の画家ではあるが、それなりに満足した生活を送っていた。道雄は自分の絵を好きだと言うサチ(田中真琴)と出会い、恋に落ちる。彼女と幸せな日々を送るうちに画家としての経済的な成功・社会的な評価を望むようになるも、なかなか手応えを得られない道雄は、ある日道端に捨てられた抽象画を拾い、罪深い行動に出てしまう。
彼が絵を描くときの、画材どうしがこすれるザリザリという音。焦燥の息づかい。公園の落ち葉。上司の水筒から立つ湯気。二人の女性が身につけているもの。彼女たちが現れる場所。彼女たちの髪質。日差し。ぷらぷらと揺れる電灯のスイッチ。あらゆるものの「質感」がありありと伝わってくる。無名の画家が自身の作品に対する評価を巡って葛藤し迷い続けるという『道草』で、道雄らしい/らしくない(サチが言うところの「楽しい/楽しくない」)絵を隔てる基準こそが「タッチ」であり、まさにその説得力を保つべくして『道草』は「質感」の映画として完成している。
さらに、思い返せばファーストショットは家庭ごみであった。作品の象徴と把握されるべきファーストショットで、いくつもの家庭ごみをまじまじと見る経験は多くの観客にとって初めてだろう(しかし中盤になれば、本当に家庭ごみが道雄の人生の転機として機能し始める)。家庭ごみを映しながらも、ありのままの汚さや生々しさを露呈するだけに終わらせることなく、「『ごみ』には何かあるのだ」と思わせるという制御の効いたファーストショットもまた、実に「質感」の映画たる『道草』らしいものである。
「質感」の演出が隅々まで行き届いている『道草』だが、逆に、登場する数々の絵を形容したり感想を述べたりする人物たちは、あまり饒舌ではない(そもそも『道草』の俳優たちの魅力はおそらく饒舌さとは対極のところにあるのだと感覚的にわかるキャスティングがなされている)。絵を言葉によって評価させはしないのだ。
道雄の一番の理解者でありえたサチでさえも、「楽しい/楽しくない」「パワー」という語彙でしかその価値を形容できないのだから(それがまたサチのサチらしさを形成しているし、それでいて言いたいこともよくわかる)。