『るろうに剣心 伝説の最期編』は現代と重なる作品? 佐藤健が表現する精神の成長

 先週に引き続き、9月9日は映画『るろうに剣心』のシリーズ第3弾である『るろうに剣心 伝説の最期編』が『金曜ロードショー』(日本テレビ系)にて放送される。同作は、第2弾『るろうに剣心 京都大火編』に続くもの。物語はその後の第4弾まで時系列順に続いていくが、『京都大火編』と『伝説の最期編』は“2部作”だ。つまり前編を観た方は、後編も観ないわけにはいかないのである。この放送を楽しみにどうにか1週間を乗り切った方もいるはずだから、その楽しみを奪わぬよう、できるだけネタバレは避けるようにしたい(ネタバレの線引きは人それぞれのため、心配な方は鑑賞後に再訪していただければと思う)。

 本作が描くのは、この2部作の核である志々雄真実(藤原竜也)が率いる志々雄一派と、主人公・緋村剣心(佐藤健)たちの激闘だ。志々雄に関する情報は、前編である『京都大火編』でだいたい把握されているだろう。一応おさらいしておくと、彼は“幕末”という動乱の時代が生んだ怪物であり、明治という新しい時代に歓迎されなかった悲しみと憎しみの権化である。

 剣心と同様に倒幕派の暗殺者であったものの、その大きな違いは彼が大変な“野心家”だということ。「人斬り抜刀斎」と呼ばれていた頃の剣心は血も涙もない男だと言われていたが、志々雄は残虐性も備えている。これを危険視した新政府の者から彼は暗殺されたうえ、焼き払われてしまったのだ。ところが志々雄は奇跡的に生き延び、全身に大火傷を負いながらも、復讐のために政府の転覆を画策している。普通の人間であれば立っていることなど到底できない状態だが、彼が立っているその事実が、志々雄という人間の底知れぬ執念深さを物語っているだろう。

 剣心にとって志々雄はじつにやっかいなキャラクターだ。平穏無事な日々を過ごそうとする剣心は、一部の人間にとって新時代の象徴的な存在であり、志々雄にしてみれば最大の抹殺対象であることがよく理解できる。過去に囚われている志々雄に対し、“先輩”である剣心は新しい時代に適応しているのだ。たしかに許しがたい。そしてこの事実こそ、剣心の苦悩を生み出している。かつての幕末においてこの2人は“同志”であり、剣心も進む道を間違えれば現在の志々雄のようになっていたかもしれないのだ。つまり、剣心の前に立つ志々雄は、鏡に映る歪んだ像のような存在なのである。これを打ち倒さねば、剣心の新しい時代はまた遠のくというわけだ。

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