仲野太賀×草彅剛による渾身の芝居のラリー 『拾われた男』が刻みつけた一人の男の人生
俳優・松尾諭による「自伝“風”エッセイ」をドラマ化した『拾われた男』(NHK BSプレミアム/ディズニープラス)が先日、最終回を迎えた。
「役者を志して尼崎から上京した松戸諭(仲野太賀)が、自動販売機の下に落ちていた飛行機のチケットを拾ったら、芸能事務所の社長に拾われて俳優になった」というサマリーにのみ着目すれば、この物語は主人公・諭の「シンデレラストーリー」と見られるのかもしれない。
「チケットの奇跡」で事務所に拾ってもらえるも、そう簡単に事は運ばず、何年も芽が出ない。その「モラトリアム期」にビデオ屋でのバイトを通じ、諭はさまざまな人生経験を積んでいく。持ち前の「愛され力」と「強運」で、たくさんの人の助けを得ながら、知らず知らずのうちに諭は「なんとかなって」いく。運命の女性・結(伊藤沙莉)と出会い、結婚。結の「“福”を呼び寄せる力」も相俟ってか、結婚と前後して俳優の仕事も軌道に乗りはじめる。やがて愛娘・福子(永尾柚乃)を授かり、公私ともに順風満帆。一見、強運な主人公が数奇な“縁”を手繰り寄せ、人生を切り開いていく「成功譚」に思える。第6話までは。
諭の兄・武志(柊木陽太/草彅剛)の物語がフィーチャーされる第7話から第10話にかけては、まるで別のドラマが始まったかのようだった。しかし、この終盤のストーリーこそが、このドラマの「本題」であると思えてならない。現在進行形の出来事として、また回想として、第1話から毎回登場する諭の家族。諭が上京した後、ドラマは「青春群像劇」や「俳優としてのサクセス・ストーリー」の様相を呈しながらも、ずっと主人公の心の奥底には「錘(おもり)」のように、やっかいな「家族」が鎮座している。
偏屈で不機嫌な父・平造(風間杜夫)。父の不機嫌に振り回され、いつも眉が八の字に下がった母・きく(石野真子)。口から出まかせばかり言って、つかみどころのない兄・武志。諭はそんな家族が嫌いだった。生まれ育った尼崎の街も、団地も、「願い事が叶う」という理由で節分でもないのに年中、平造がきくに作らせる「太巻き」も、大嫌いだった。
第1話〜第6話では、諭の「手繰り寄せ力」が功を奏し、他人と築く“良縁”がもたらす好運が描かれたが、アメリカの田舎町で武志が脳卒中のため倒れた第7話からは、このやっかいな“血縁”が、諭の人生に重くのしかかってくる。2つの「縁」の対比がシビアだ。諭は「嫌いな兄」を迎えに、アメリカに渡る。
「ちょいちょいあるやないですか、家族って。なんにも解決してないのに、無理して蓋するいうか」
毎話冒頭にストーリーテラーとして登場する松尾諭本人が、担当編集者の芥川マリ(夏帆)に言う。平造が隠し持っていたアダルトビデオ『野生の象徴』のエピソードについて説明するついでに、ボソッと語ったこの言葉が、本作品の“核”なのではないだろうか。仲良し、愛情、絆。そんな綺麗事だけが「家族」の本質ではない。誰しもが、何かしらを抱えて、蓋をして生きている。「家族」って、本当はもっと無様で、不恰好で、面倒くさいものじゃないだろうか。けれど、なかなか離れられない「やっかいな存在」。それも「家族」のひとつの側面だ。