Netflix版『バイオハザード』に感じる虚無 過去映像作と比べて何が問題だったのか?
ここにきて、ポール・W・S・アンダーソン監督による『バイオハザード』シリーズの評価が高まってきたように感じる。本シリーズは第1作が2002年に公開され、ミラ・ジョヴォヴィッチ演じるアリスを主人公にするなど大胆なオリジナル要素が多かったが、原作ゲームの要素を巧みに取り込み、アクションとサスペンス両方のジャンル映画としてすごく良く作られていた。続編ではラクーンシティを舞台にジル・バレンタインやネメシスなどのゲームキャラクターを登場させるなど原作ゲームへの意識が強まった。その後、シリーズは全6作まで作られる“世界的な大ヒット”を記録したものの、どこかB級作品として扱われる節がある。映画の作りは(脚本を含め)そんなに素晴らしいわけではないが、観ていて楽しめる部分がある、それなりの魅力を感じる不思議な作品だった。筆者にとっても、“ギルティープレジャー”的に好きなシリーズだ。それなりに擁護して好きだったからこそ、最終作『バイオハザード:ザ・ファイナル』の整合性の皆無さには些か腹を立てたけれど。
そして、2022年にはリブートとして新たなスタートを切った『バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』も公開された。本作はアンダーソン版とは違い、かなり原作ゲームに沿ってプロットもキャラクターも作られていた作品ではあるが、逆に魅力がイースターエッグに偏りすぎて映画作品としての魅力やストーリーの部分で弱い印象の作品だった。
アンダーソン版はメチャクチャなことをやりながらも、意外とストーリーを含む全体の世界観の作り込みが深かったり、『バイオ』シリーズに欠かせないアクションが魅力的なシーンもふんだんだったり、高く評価できる部分がたくさんある作品だった。それに比べ『ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』はアクションがあまりなく、淡々と物語が進んでいくだけで強い印象は残せなかったにしろ、雰囲気も良かったしゲーム要素が満載で原作ファンが発見を楽しめる部分もあって、何とか低予算なりに頑張った印象があった。さて、そこでのNetflixオリジナルシリーズ『バイオハザード』である。海外批評家サイトRotten Tomatoesでは批評家サイドの満足度が54%、視聴者側の評価が27%という数字が出ており、とにかく不人気なことがわかる。過去の映像化作品と比べて、本作がなぜこれほどまでに“非『バイオハザード』”作品として、その名を冠して作られてしまったのか、問題点を考えていきたい。
非魅力的なキャラクターのドラマに興味を持てるのか
本作の問題は、大きく分けて二つになると思う。一つは「『バイオハザード』作品なのに、全然『バイオハザード』なことをしていないこと」。もう一つは「作品そのものの粗暴さ」である。この二つの問題に総じて関わってくるのが、「キャラクター」だろう。本作の主人公はゲームでもお馴染みの“あの”アルバート・ウェスカー……ではなく、その双子の娘である。オリジナルの主人公を立てること、そしてそれを女性にすること自体はアンダーソン版もやっていた。しかし、アリスとウェスカーの双子の娘、ジェイドとビリーの決定的な違いは、後者が「unlikable(好きになれない)」キャラクターであることだ。
実際、映画やドラマにおいて観客から「好かれない主人公」という存在は珍しいものではない。例えば『時計仕掛けのオレンジ』のアレックスや、『ヤング・アダルト』のメイヴィスなど、サイコパスでモラルが欠けているから寄り添えない主人公、痛すぎて見ていられないから苦手と思う主人公など、嫌われる理由は様々だ。しかし、彼らは、ヘイトを持たせると同時に底知れぬ強い魅力で観客の目を奪う存在でもある。「嫌い」というのは強い感情であり、観客にそれを抱かせた時点で、実は彼らにパワフルなキャラクター造形がなされていることの証明になっているのである。ところが残念ながら、ただただヘイトを買うだけでそれ以上の深みも、人間的魅力も感じられないのが、Netflix『バイオハザード』のジェイドとビリーなのである。ビリーは常に後ろ向きで文句ばかり言い、ジェイドはとにかく必要以上に暴力的で、人の話を聞かない。そのせいで多くの人が迷惑し(実際たくさんの死人も出している)問題行動ばかりなのに、大人になってもその点が一切成長していない。大人版ビリーに関しては、人間社会や文明を破壊する理由が自分の不遇な幼少期や姉への恨みという、何とも子供っぽい言い訳で救いようがない。
ひいては、彼女以外の多くのキャラクターがただそこに存在するだけで、「もっと知りたい」と思わせるほどの魅力に欠けていると言っても過言ではないだろう。唯一、その点において突然シリーズの中で最も(そして唯一の)魅力的なガンアクションを見せてくれたリチャード・バクスター(ターロック・コンヴェリー)は、敵だけど共闘したり、ジェイドを助ける上で何十体ものゾンビを一人で倒したりと、良いサプライズをしてくれて一気に興味をひかれたキャラだ。しかし、制作側はこんなに面白そうな人物を、面白そうに見せた瞬間にゾンビに食わせて殺したので、思わず頭を抱えてしまった。
“woke”な作品として
アルバート・ウェスカーにおいては、彼が黒人になった正当な理由がない。もともとウェスカーというキャラクターはバリバリの白人男性だ。それを黒人に変更することでキャラクターイメージを一新させるリスクを負ったにもかかわらず、黒人になったから描けたもの、その意義さえ観客に届けられていない。むしろ、悪い「woke」の例になってしまっているのだ。これは先の双子の主人公にも同じことが言える。実際、本シリーズのメインキャストはほぼ女性。大人版ジェイドを演じたエラ・バリンスカは180センチという高身長で、男性との共演シーンではほぼ彼らより背が高いか同じくらいの背丈に見える。男性キャラクターは頼りない存在として描かれ、基本的に女性キャラが力を持ち、物事を進める印象を意識的に持たせているのだ。もちろん、強い女性像を打ち出すことは応援したいし必要なことだと考える。ただ、それならばしっかり彼女たちを“魅力的な”キャラクターに描くことにまず注力するべきではないだろうか。
“権力を持つ女性”として作られたイヴリン・マーカスというキャラがゲイであったり、ビリーがヴィーガンであったり、そんな彼女を無意味に攻撃する非ヴィーガンの子が登場したり。全体的な印象として、こちらが聞いていないのに「wokeの精神を心掛けているんです!」と言わんばかりのアピールが続くものの、ただその要素を付随させただけでキャラクターはみんな“浅い”。どれくらい浅いかというと、印象的なエモ系の髪色をしたビリーというキャラクターが、登場シーンでビリー・アイリッシュを聞いているくらい、浅い。とってつけたそれらの「woke」要素が、逆に真の「woke」の妨げになっている点で本作はすでに大きな問題を抱えている。
好かれないキャラクターを登場させたとしても、興味深く力強い物語が、そのキャラクターを面白くさせる。逆に、物語がイマイチでもキャラクターの魅力が立っていれば、その存在が作品を牽引する。アンダーソン版『バイオハザード』シリーズが良い例だろう。あの作品でも、彼はオリジナルとして女性キャラを主人公にしたが、そこに必要以上に押し付けがましく意味のない「woke」はなかった。むしろ、アリスというキャラクターがクリエイターの手から離れても、“強い女性”でい続けることが理解できる整合性を持って、シリーズを通して「パワフルな女性主人公」に成長していったこと、演じたジョヴォヴィッチがアクション女優の地位を自らの活躍を通して高めたことこそ評価されるべきことではないだろうか。そういう自然さが、本来の「woke」のあるべき形だと私は思う。
誰に向けた作品なのか
“浅い”といえば、本作の登場人物はしきりに現実のリファレンスをしてくる。「コロナ」などの今起きているマターのワードを出してくるほか、『リック・アンド・モーティ』や『スポンジ・ボブ』を会話の引き合いに出したり、しまいには「『ズートピア』のポルノを見る」というセリフまで登場させたり、とにかく観客の興味をひこうという脚本家の必死さが伝わるのだ。しかし、それらは一体誰に向けているのか。若年層へのアプローチとして10代の女の子2人の学園生活&探偵ごっこシーンを描いたのであれば、彼らにとってゾンビにまつわるストーリーは邪魔かもしれない。逆に、『バイオハザード』を求める視聴者にとって、退屈な過去のストーリーはノイズでしかない。キャラクター設定から、彼らの会話の内容、全体の物語において、とにかく本作はターゲットがめちゃくちゃなのだ。整合性もない。なぜ、普通の14歳の少女が二人だけで世界のトップを狙う大企業に侵入できたのか、夜中に見回りのガードはいないのか。この、“アンブレラ社セキュリティ甘すぎ問題”などから、本作が整合性を欠いた上で物語を無理やりに進めるスタンスなのがわかるだろう。
本作はただ、キャラクターや場面転換において「これはこうです」と提示したものを視聴者がそのまま素直に受け入れて納得することを信じている。しかし、我々はキャラクターを好きになるために整合性だって大切にするし、クリエイターの怠惰を都合よく受け入れる存在ではない。このあたりに「作品そのものの粗暴さ」という問題が表れていると感じるのだ。仮に『バイオハザード』の実写化ドラマというフィルターを除いたとしても、この作品の面白さが上がるわけではない。全話を通して描かれる姉妹の問題にカタルシスを感じることもない。それは単純に、キャラクター、物語、全てにおいて、作品の出来が悪いからではないだろうか。