『ちむどんどん』歌子に立ち上がった“フラグ” 優子はなぜ早く彼女を検査させなかったのか

『ちむどんどん』歌子に立ち上がったフラグ

 1964年から物語がスタートした『ちむどんどん』(NHK総合)。気がつけば、第10週では1976年となっており、もう12年もの月日が流れていた。10歳だったやんちゃな暢子(黒島結菜)も22歳。その妹である歌子(上白石萌歌)は1974年に高校を卒業したということもあり、おそらく現在20歳だ。しかし、このドラマでは何かと彼女の身体の弱さが随所で描かれてきた。

 もともと幼少期から身体が弱かった歌子は、頻繁に熱を出していた。その度に母・優子(仲間由紀恵)に限らず、長女の良子(川口春奈)や長男の賢秀(竜星涼)、そして暢子に面倒を見てもらう。歌を歌うのは昔から好きで、父・賢三(大森南朋)から三味線や沖縄民謡を教わり、その後も音楽が彼女の人生に大きな意味を持っていくわけだが、とにかく幼少期から自己肯定感が低い。それも、何かと体調を崩して家族に迷惑をかけてきたこと、困窮になった時も自分は家のために何もできなかったことなど、幼い頃からとにかく負い目を感じて育ってきたことが原因にある。結果、彼女はハッキリ物を言う兄や姉たちと比べ、シャイで内気な性格になった。

 歌子の「身体が弱い」設定は正直子供の頃に限ったものかとドラマが始まった頃は思っていた。幼い頃に身体が弱かったというのはあながち珍しいものでもないはずだからだ。それに子供が熱を繰り返すことも聞く話だ。しかし、やはり気になるのは、20歳になっても職場で気を失って倒れてしまうほど病状が悪化していることである。さらにもっと気になってしまうのは、高校在学中に意を決して応募した歌手のオーディション中にも高熱で倒れたのに、あれからも大型の病院で検査を受けたらしき様子が描かれていないことだ。

 会社を休むようになった歌子を、ついに東京の病院に連れて行き、検査を受けさせたいと暢子に相談する優子。確かに、沖縄の医療現場は戦後かなり劣悪だったと見受けられる。1946年、沖縄に残った医師はわずか64人。本島各地に小さな病院が建設され、1950年に本島から戻ってきた医師も含め131人となったものの、全人口10万人に対する数字なので圧倒的に医師不足である。しかもその後締結されたサンフランシスコ講和条約により、沖縄の行政権はアメリカが握っていた。1954年の「第五福竜丸事件」のこともあって各地でストライキが勃発したこともあり、アメリカは沖縄と本島間の出入管理を厳しくしていたらしい。その影響も受けて、本島からの専門医の導入も難しく、また沖縄の医師が本島に派遣研修をしにいくことも阻止されていたとのことだ。こういった状況を踏まえ、当時の沖縄の医療現場は劣悪だったと言われている。

 しかし、1964年、ちょうど『ちむどんどん』の物語が始まった時にハワイの太平洋軍司令部が沖縄の公衆衛生・医療状況を視察したところ、その状況の改善の必要性を認識し、沖縄に臨床研修病院と医療機関としての医科大学を設置することを決定。3年後の1967年にはハワイ大学から専門医や、戦後の韓国医療界を立て直したという教授もが派遣され、沖縄県立中部病院に常駐した。彼らは1971年の本土復帰時に一時帰国するが、1973年には再び沖縄県知事がハワイ大学の学長と契約し、この研修プログラムが継続されたというのだ(これは今日まで継続されている)。つまるところ、この頃にも沖縄には医療機関としての病院があることにはあって、アメリカからのエキスパートも招かれて質がどんどん上がってきている時期だったかもしれないはずなのだ。

 しかし、優子は東京の病院に行こうとする。物語を進める上で、暢子と歌子の再会のためにこの東京行きというイベントが必要なのだろう。ただ、歌子の検査結果がすでに今から不穏なものになりそうな気配がしてならない。いわゆる、“死亡フラグ”が立っているのだ。もともと、本作の作り手である羽原大介は『若草物語』から着想を得ていると公式インタビューでも語っていた。『若草物語』でも、ベスという音楽が大好きで内気なキャラクターが登場し、歌子はまさに彼女の立ち位置にいる。そしてベスにも、一度は猩紅(しょうこう)熱によって死にかけるが、一命を取り留める展開があった。もしかしたら、歌子もこれに倣って大丈夫になるかもしれない。

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