『トップガン マーヴェリック』失った命に想いを馳せて アメリカ映画そのものの旋回と反復
『トップガン』(1986年)の監督トニー・スコットが2012年に自死したとき、同作の続編企画はこれでもうダメになったと誰もが思った。ところがみずから続編の製作権を握っていたトム・クルーズはまったく諦めておらず、そのあと10年の歳月をかけて続編『トップガン マーヴェリック』は世に問われた。前作が公開された1986年から、なんと36年もの歳月が経過している。通常のシリーズ映画は第1作が公開されてから第2作が製作されるまでこれほどの時間を要することはない。この長い時間経過はトム・クルーズの同作へのこだわりの強さゆえであるし、またトニー・スコット監督の死を克服して企画進行が健在だったのもトム・クルーズの執念だろう。
今回の『トップガンマーヴェリック』の評判、評価の非常なる高さをいろいろと読んでいて興味深いのは、前作『トップガン』の時はさして良いと思えなかったはずなのに今回は素晴らしいと思った、という意見が少なくないことだ。当時は『トップガン』が大ヒットを記録しつつも、評価的には留保がついた理由はよく知られる。1981年冬に誕生したロナルド・レーガン政権下、アメリカはベトナム戦争による失意を徐々に反転させ、保守主義と好戦主義が再び台頭したという背景がある。フランシス・フォード・コッポラ監督『地獄の黙示録』(1979年)やマイケル・チミノ監督『ディア・ハンター』(1978年)といった厭戦的な軍隊映画は、『ランボー』(1982年)や『7月4日に生まれて』(1989年)などの退役軍人のルサンチマン映画に引き継がれていく一方で、ベトナム戦争以前の戦争映画に横溢していた楽天性が1980年代以降はだんだん復活し、その潮流の中で『トップガン』のほか、『ファイナル・カウントダウン』(1980年)、『パラダイス・アーミー』(1981年)、『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986年)、『愛と青春の旅立ち』(1982年)といった青春映画や活劇映画、コメディ映画の要素を加味した作品群が生まれたことだろう。
今回の『トップガン マーヴェリック』は前作の30年後を描きつつも、同じような物語を反復させている。映画の冒頭、主人公マーヴェリック(トム・クルーズ)が日本や台湾の国旗を背中にあしらった皮ブルゾンを着込んでKAWASAKIのバイクにまたがり、オレンジ色の夕陽を受け止めつつ基地に到着する。これは前作でも今作でも共通する。次に、基地の街によくあるクラブバーでマーヴェリックが自立した女性と知り合う。これも共通。しかしこのクラブバーのシーンは少しばつの悪い結果に終わって、その翌朝の研修で教官と生徒のあいだでばつの悪いシチュエーションが上塗りされる。これも共通。不在の父性と、代理的な父性。過剰な自信に満ちた前半と、神経症的に動揺する後半。「チームを固める」ためにおこなわれる遊戯は前作ではビーチバレー、今回ではアメリカンフットボールである。
このように映画の物語が同じような弧を描いて旋回し、反復し、着地する。まるで数世代も繰り返される一族の人生のように。前作と今作のあいだで応答される旋回と反復は同時に、アメリカ映画そのものの旋回と反復である。主人公のキャプテンが愛馬で騎兵隊基地に戻ってくることで幕を開ける西部劇を、私たちは過去に数えきれないほど持っているではないか。『トップガン マーヴェリック』で亡き同僚の息子がクラブバーに入ってくるなり、ピアノを乱暴に弾きながら歌うとき、人は西部劇のサルーンを思い返すだろう。しとやかな女性像よりも、前作における航空物理学者チャーリー(ケリー・マクギリス)や、今回のクラブバーのオーナー店長ペニー(ジェニファー・コネリー)のように、経済的にも精神的にも自立し、相手の男性に依存しない女性像が尊ばれる。アメリカ史からフロンティアが消失した、とはよく言われるが、『トップガン』『トップガン マーヴェリック』の両作には、たとえフィクショナルものであっても西部劇的なフロンティア精神が強調されている。
アメリカ最大の映画作家ジョン・フォードの名高い西部劇『黄色いリボン』(1949年)で、基地内のサルーンでダンスパーティがたけなわのひと時、主人公のネイサン・ブリトリス大尉(ジョン・ウェイン)はサルーンの裏口すぐにある小さな墓地に出て、亡き妻の墓参りをする。墓参りというテーマが西部劇にとって、いやアメリカ映画史にとってきわめて重要なものであり、スティーヴン・スピルバーグの『プライベート・ライアン』(1998年)も『シンドラーのリスト』(1993年)も墓参りに始まり、墓参りで終わるというのは、まったく偶然の事態ではないである。『トップガン マーヴェリック』のちょうど真ん中ほどのところでマーヴェリックのかつてのライバルで現在は後見役である提督のアイスマン(ヴァル・キルマー)が咽喉がんで亡くなり、ミラマー海軍航空基地内の国立墓地で葬儀がおこなわれる。白い十字架が整然と並ぶ墓地の風景というものは、アメリカ映画の光景として不滅のものである。