劇場版公開を機に紐解く『輪るピングドラム』 より暗くなってゆく時代へのアンサーとは

劇場版公開を機に紐解く『輪るピングドラム』

異才・幾原邦彦監督によるアバンギャルドな演出

 そのシーンでは、なぜか1980年代を中心に活躍した、石橋凌がボーカルを務めたロックバンド「ARB」の「ROCK OVER JAPAN」をポップにアレンジしたカヴァー曲が景気良く流れ、音楽に合わせて彼女の衣装も弾け飛んでいく。プリクリは「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」と前置きし、冠葉と晶馬に対し、陽毬の命を救うためには「ピングドラム」を手に入れなければならないと説明する。そして、「生存戦略、しましょうか」と、冠葉の体内から“何か”を取り出すのだった。

 このシーンの意味を、初見で理解できる視聴者は皆無であろう。理解が追いつく前に、次々と意味の分からない出来事が起こり続けるので、少なくともこの時点では、混乱をきたすトリップ映像として、そのまま享受し続けるしかないのだ。この、“分からないものを見続ける”という映像体験が、『輪るピングドラム』を観ることの快感でもあり、同時に、少なくない視聴者が振るい落とされ、離脱することになった理由であるといえるだろう。

 TVシリーズでは、このプリクリが登場する、作画枚数を割いた“イマジン”シーンがエピソードごとに繰り返される。このような“お決まり”となる映像の使い回しは、一般的に「バンクシーン」と呼ばれ、アニメのTVシリーズで古くから存在する定番の演出となっている。

 幾原監督は、この、ともすればワンパターンで刺激のない時間になってしまうバンクに、舞台演出との共通点を見出し、アニメのなかの“演劇性”を強調して見せることで、作品自体がアニメに対しての批評性を持つような演出法を用いてきた。『美少女戦士セーラームーン』シリーズ、『少女革命ウテナ』、『さらざんまい』など、幾原監督の作品におけるバンクは、どこか不気味さを湛えた、テンションの高い異質な創造性とラディカル(急進的かつ根本的)な感覚を作品に与えてきたのである。『輪るピングドラム』のそれは、なかでもそのスタイルが完成した代表的な演出例であるといえよう。

 作画の負担を減らしながら、それを逆に利点にして、アニメーション表現を外側から眺める効果を発揮するという意味では、群衆(モブ)をあえて「ピクトグラム(図記号)」として描くことで、印象的な作品世界を作り上げているのも、本シリーズの重要な特徴だといえる。また、そこで浮いた作画コストを他の場面に集中することで、視聴者、観客を驚かせ魅了するような、TVシリーズ第9話に代表される、傑出したエピソードを見せることができる。多くの場合、限られた日数やパワーのなかでやりくりしなければならない日本のアニメ製作現場で、刺激的な作品を生み出すためは、こういったマネージメントを含めた演出センスも必要になってくる。

作品世界のベースとなるのは、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

 さて、「ピングドラム」とは、いったい何なのか。陽毬の命を救いたい冠葉と晶馬は、わけも分からないまま、“それ”を持っているはずだという高校生・荻野目苹果(おぎのめ・りんご)を調べ始める。そこから本シリーズは、プリクリが登場する難解なシーンや、苹果の謎を追う過程で描かれる、ポップなテイストのドタバタ劇を往還する、奇妙な味わいの性質を明らかにしていく。

 幻想シーンで描かれている数々の謎については、ある程度説明しなければならないだろう。これを解くヒントになるのは、劇中でもたびたび「そらの孔」や「蠍(さそり)の火」などの関連ワードが登場する、宮沢賢治の児童文学『銀河鉄道の夜』の内容である。

 “冠葉と晶馬”の名前の由来となっているのは、宮沢賢治の未完の代表作『銀河鉄道の夜』のなかで、天の川銀河を駆ける軽便鉄道に乗って星空を巡った「カムパネルラ」と「ジョバンニ」だということは、よく知られている。彼らの髪の色が赤と青なのは、こちらも名作として知られるアニメ映画版のキャラクターデザインからの引用だろう。また、本作のラストに登場した眞悧(さねとし)は、ジョバンニをいじめていた同級生の「ザネリ」とも読むことができる。ここで分かりやすく示されているように、『輪るピングドラム』は、『銀河鉄道の夜』の世界観を現代的に解釈してポップに表現したものだといえる。

 『輪るピングドラム』の舞台となる、高倉家のある荻窪から、陽毬が倒れた水族館のある池袋までの範囲は、地下鉄丸の内線で結ばれ、その区間の数は全24話のエピソードに対応している。陽毬が若くして命を落とすことが、“運命(デスティニー)”であるとするのなら、この路線の行き先は避けられぬ悲劇の象徴だといえる。

 また当時の流行に乗って、理不尽な難病による生死のドラマをテーマにした感動作であるかのような構えをとった本作は、宮沢賢治の妹が結核によって若い命を落としたという、実際のエピソードを想起させる。『銀河鉄道の夜』が、賢治が妹との別れを描いたものなかどうかについては諸説あるが、この出来事が、宗教的な求道性を持った『銀河鉄道の夜』における死生観に、多大な影響を与えているのは確かだろう。

 賢治は、このように理不尽な世界のなかで、運命に振り回されざるを得ない弱い人間たちが、どのように生きていけばいいのかを、作品を書きながら何度も試行錯誤を繰り返し、考え続けた。だから『銀河鉄道の夜』には、複数の稿が存在する。 われわれがよく知っているのは、最後の稿「4次稿(最終形)」と言われるものだ。 「初期形」と呼ばれる1、2、3次稿と、これが大きく異なるのは、ジョバンニが川に行く場面と、初期形のみに登場する「ブルカニロ博士」の存在の有無である。

 初期形では、ジョバンニの幻想空間への旅は、ブルカニロ博士の実験に呼応したものだったという設定となっている。 おそらく賢治は、作品の構造を説明してしまうことで興を削いでしまうと判断し、最終形で博士を登場させなかったのだろうが、それだけに、この初期形には『銀河鉄道の夜』を理解する助けになるヒントが多く存在するのである。

“輪り続ける列車”と「プレシオスの鎖」

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあふどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」
(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』初期形第三次稿)

 ここで賢治が書いた「お前が会うどんな人でも、みんな何べんもお前と一緒に汽車に乗った」というのは、仏教思想に根ざした、「輪廻転生」の考えをモデル化したものだと考えられる。 輪廻転生とは、「悟りを啓き、仏となって涅槃(天国)に至るまで、何度も生と死を繰り返して、生命の循環を繰り返さねばならない」という概念である。 つまりジョバンニは、何度も何度も死んでは蘇り、別の人間になって、また別のカムパネルラと出会い、「ほんとうの天上(涅槃)」へと行けるまで、何度も姿を変えながら、いつまでも一緒に行こうとするのである。そして、悟りを啓く困難についても、この会話の中で語られている。

「あゝごらん、あすこにプレシオスが見える。おまへはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。 」
そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。
「あゝ マジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」
ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。
(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』初期形第三次稿)

 文中にある「プレシオスの鎖」とは、旧約聖書に書かれた、「プレアデスの鎖」のことであろう。 ヨブ記には、「あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか」という文章がある。 プレアデス星団とは、青白い高温の星の集団であり、「神の知恵の輪」のように見えるという意味で、人間の力では解くことの出来ない“神のゲーム”の名が与えられたのだ。人間がそれを解くことができたとすれば、「本当の天上」へと繋がる悟りの境地に至ることができるというのが、賢治の考えであるはずだ。ジョバンニは、辛い別れを繰り返しながら、何度も何度も生まれては死に、立場を変えながら銀河鉄道に乗り込むことになるのだろう。

 『輪るピングドラム』の晶馬たちもまた、地下鉄丸の内線に象徴される、“あらかじめ定められてしまっている悲劇へと至る運命”に縛られ、輪廻のなかで何度も同じ線路を辿ることになるはずだ。「そらの孔・分室」に収められていた、類似した大量の書物は、繰り返される人生の旅が、その数だけ記されたものなのではないか。だとすれば、結末は毎回悲劇で終わるしかないはずである。

 そんな悲劇を回避するために、晶馬たちは人智を超えた力を手にするべく、『銀河鉄道の夜』でいうところの「プレシオスの鎖」を結ばなければならない。それが作中で語られる“「ピングドラム」の発見と使用”、すなわち「運命の乗り換え」ということになる。

 銀河鉄道や丸の内線が、同じ終点にしか辿り着けないのだとするのなら、途中で違う路線に乗り換えることができれば、別の目的地に着くことができるのではないか。それはまさに、終わりない輪廻転生の輪から抜け出す涅槃への道だと考えられる。そして、この賢治の考えた悟りに至る直接的なヒントが、本作に登場し、『銀河鉄道の夜』にも書かれた、「蠍の火」や「苹果」のなかに存在するのである。この正体が何なのかについては、7月に公開される『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編]僕は君を愛してる』で書くことにしよう。

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