『私ときどきレッサーパンダ』で広がる理解の輪 “いい子”を目指したすべての女の子の物語
「控えめに言って“地獄”!」と思わず叫びながら背中を痒きむしりたくなるような前半から、「うんうん、そうだそうだ」と胸がすくようなクライマックスへ。まるでジェットコースターに乗ったようなスピード感あふれる1時間40分だった。映画『私ときどきレッサーパンダ』のことだ。
これは「いい子」を目指したことのあるすべての女の子の物語
「地獄」と感じたのは、主人公の少女・メイが母親・ミンから背負わされている「いい子であれ」というプレッシャーを感じている日々のこと。きっとこれほど拒絶反応のようなものが出たのは、筆者自身もかつて「いい子」であろうとしていた時期があったからかもしれない。
母親が自分のことを大事に思っていることも、愛してくれていることもわかる。だからこそ、いい子でいることは親を喜ばせたいという子どもなりの生きる知恵でもある。だから勉強を頑張っていい成績を取った。放課後は寄り道をせずに真っ直ぐ帰ったし、家の手伝いも積極的にしていく……。
そんな“いい子マニュアル”の通りの生活に、何の疑問や不満を持たずにいられたときには平和だった。しかし、そこに収まりきらないものが生まれてしまう。自我のようなものが芽生え始めた13歳のころには、うまく折り合いがつけられなくなってくるのだ。
人によっては、親の好みに合わない趣味もできるだろう。そこから「悪友」と呼ばれるような交友関係も生まれる。身近な人からアイドル、二次元のキャラクターなど誰かに恋をして勉強どころではなくなったりもする。性に対して興味が湧き、こっそりノートに妄想をしたためてベッドの下に隠しておく……なんてこともあるだろう。
きっと親はそんな自分をいい顔をしないとわかっている。だからこそ、ジレンマを抱くのだ。「いい子でいたいのに」と戸惑いながらも、自分では止めることのできない好奇心に。
そして心の変化だけではなく、身体の成長も待ってはくれない。筆者も生理を知ったときには「大人の女の人って、毎月血を流しながら生活してるって本気で言ってる?」と、にわかに受け入れられなかった。「平気な顔をして生活しているあの人もあの人も、本当に生理があるの?」と、見る世界が一気に変わったような気分にさえなった。それも始まってしまったら、何十年と続くなんて「信じられない!」と。
でも、どんなに怯えていても、その日はやってくる。自分の覚悟とは無関係に変わっていってしまう自分自身の心と身体。母親に失望されたくない。でも、そんな混乱している真っ最中に「いい子でいてね」なんて釘をさされたら? 「いい子」でいること以上に大事に思えてきたモノや仲間たちを否定されたら? 「うるさい!」と噛みついてしまうのも仕方のないこと。
そんな思春期の女の子の心身共に劇的な変化を本作では、“赤きパンタの力”によって変身することになるレッサーパンダの姿で表現される。「私はモンスターになった」とメイは涙を流すが、その姿がもふもふのレッサーパンダというのが微笑ましいところだ。なぜなら、もっとおぞましいモンスター像にだってなったはず。そうはしなかったところに、本作を手掛けたドミー・シー監督自身からの温かなメッセージがあるように感じた。