菊地成孔の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評(後編):ジェーン・カンピオンは「過剰な男性性」を裁いただけなのか?

ミスリードは続く(筆者に)

 このシーンが、「無能者を有能者が貶めるポテンシャルの悪行」にしか見えず「無能者に優しくあるべく、まずは繋がろうとしてるのに、イライラしてコミュニュケーション不全を起こしてしまうポテンシャルの限界」に見えない、というセッティングは、前述のパンチドランキング効果をセットされた者にリセットを与えない。主要キャラクターが皆、キャラクターのリセットを行っている流れだというのに。

 ローズは、フィルのポテンシャルによってのみ壊されるのではない。兄弟の、表裏一組となったポテンツに挟殺される形で彼女はメンタルを壊し、アルコールに依存していく。ローズの懊悩の中には、フィルの性的魅力、有能感への憧れ、といったアンビバレンスが含まれる。

 多くの解説が、<フィルによってローズが壊される>、というシンプルに拘泥するのは、前述のパンチドランキング効果によるものだ。「しかしこれは上手いミスリードだ。フィルを悪役に悪役に引っ張って、どこかで反転させるためのな」。筆者の先入観はもう、存在しない別の作品を観ている。いやあ深いなあ、これどうやって畳むんだろ。被害者と加害者の図式を敢えてカリカチュアライズして、とんでもない文芸的手法によって、倫理的調和を描くのだ。すげえ。

 その後、フィルがカウボーイ社会というホモソーシャリズムに育まれたゲイであることがピーターに発見されても、ピーターが名前で呼び、愛してる筈の母に奇妙な冷淡さを見せても、ウサギを解剖したりする、生命への解剖学的執着を見せても、「生まれた時からカウボーイ」だとミスリードされたフィルが、イエール大学出のインテリであり、カウボーイ志向が天然ではないことが明白になっても、「無能で劣等意識が強い女性」への苛立ちが、コミュケーションを圧迫的にしてしまい、「どうしても自分の行為がイジメになってしまうこと」への煩悶というアンビバレンスを観せても(劇中、ローズに「本当に優しく」できる能力と可能性があるのはフィルだけなのだ。ローズの孤独の凄まじさよ)、先入観は分厚くなるばかりだ。

展開部と先入観の完成

 作品はトーンを一転させる。フィルがゲイであることを知ったピーターがフィルに懐き、フィルも心を開き出す。ローズはそのことを恐れ忌まわしく思うばかり。ジョージは何を考えているのかわからない。

 ピーターの「マッチョとの繋がり方」とフィルの「<男らしくない男>の受け入れ方」を描く最初のシーンも、筆者には絶好のミスリードとなった。フィルがどのカウボーイ仲間に聞いても、誰にも正解が出せなかった質問、「あの山が何に見える?」に対し、ピーターはにべもなく正解をいう。「口を開けた犬だ」。フィルはのけ反るほど驚く。「いつから分かった?」「最初にここに来た時から」。

 もしこのシーンがなかったら、筆者は途中で気がついていたかもしれない。このシーンは、ピーターがフィルの「弱み」である、ゲイ性を発見するときのような、そして、驚愕のラスト、フィルを炭疽菌を使って殺害する時の完全犯罪的な手口、それに前置される、フィルがゲイであることを知っての上で、誘惑する(「洗っていない、真っ青なジーンズ」が、娼婦のガーターベルトのように機能する瑞々しさ)手口、のような、計画的で探索的なものではないからだ。

 それは、ロールシャッハテストにも似たシュミュラクラ(何かが別の何かに見えること)であり、象徴読みでもあり、タイトルの由来となった旧約聖書の言葉(「私の魂を劔から救い、犬の力から助け出してください」)の断片であり、スピリットの領域まで意味するのだ。

 ローズがフィルに苛めにあう一歩手前、弾けもしないピアノを買い与えられた瞬間から壊れ始めるように、フィルは、ピーターが自分に懐き始め、カウボーイ修行を嘆願に来る一歩手前、この「山が犬に見える」才能に驚愕した瞬間から、ピーターに心を掴まれている。

 このシーンは、ずっと筆者が抱いていた「複雑で奥行きのある人間ドラマ」への幻視をとうとう完成させた。フィルのようなゲイとピーターようなゲイの両極性が感覚的、知的に繋がり、作品中の、どの関係性の中でも最も強い関係性が生じる。完全な弱者であり、ダブルバインドの被害者となった孤独なローズにも、優しさと弱さが結びついてポテンツをコントロールできない(いつ「優しい人物」に戻るか、いつ権力志向がまろび出るか、自分でコントロールできない)ジョージにも、全く理解できない繋がり。

結論

 しかし、ピーターは計画犯罪者であり、殺人者であった。邂逅の時に受けた陵辱、その瞬間に見せた殺意をずっと抱いており、大切に熟成させ、行動に移したのである。意識の上では、母を守るために。しかし、そもそも、息子が母を守らなければならない根拠となる「父の死」は、ピーターによってもたらされている。父はピーターの「強さ」に押しつぶされて自死しているのだ。

 「え?」というのが筆者の初見時の正直な発音である。思わず声が出た。セクシュアルマイノリティーに対する多様性も、ダブルバインドの厄介さも、ジェンダーとアメリカという問題意識も、マザーコンプレックス(母源複合体)の一型式がもたらす行動の異常性etcも、文芸的なネタの山は、全て放り出され、「美少年の冷酷な殺人(炭疽菌によって死ぬフィルの最後は壮絶であり、その直前の「え? なんか具合悪いな、、、、あれ、、、あれ、、、、」という状態の「弱さ」は、ポテンシャルの折れる音が聞こえるほど「可哀想」としか言えない)」という定型にかっちりハマってしまう。「高級文芸BL」とも、古典的な「美少年(少女)スリラー」とも言える。ラストは、ピーターの次の標的がジョージである(=母を守る)ことを暗示する、スリラー映画のようなものだ。

 中編(前回)に書いた「ジャンルの書き換え」のショックは、ピーターの殺人計画のように周到に作り込まれたものなのか?フィルの死のように、心を開いた瞬間に訪れる、落とし穴のようなものなのだろうか?

 筆者は最終的に「ジェーン・カンピオンの天然」説に落ち着いた。原作小説に感動し、忠実に文芸モノ、人間ドラマを撮った、それだけだろう。異貌の人、カンバーバッチが、典型的なワイルドハンサムのように見えすぎ(衣装とメイクと、役に入る努力の賜物=カンバーバッチは実際に風呂に入らず現場で過ごした)、コディ・スミット=マクフィーが美しすぎ(天然。ちなみに、音楽担当のグリーンウッドと瓜二つである)、キルスティン・ダンストが醜く過ぎ(演技力の賜物)、グリーンウッドの音楽が反・商業的過ぎ、空が澄み過ぎ、牛の数が多過ぎた。

 こうした過剰さの集積が、まるで『サイコ』のような、ジャンル書き換えが起きたような錯覚を与えたのである。しかしその錯覚は豊かで、非常に感動的なものだ。

 本作は、「過剰な男性性は女性等々の弱者を激しく傷つけ易いので、そんなことする奴は死ねばいいし、こうして実際に殺されてしまう(まあ、気の毒な側面もないではないが)」などという映画ではない。

 ローズ破滅の根拠の中には、両極な兄弟への性的願望のアンビバレンスすらあるし、フィルの過剰な男性性には、過剰にならざるを得なかった煩悶と、どうしてもハラスメントをしてしまう者の苦しみさえ描かれてる。アンビバレンスを持たないのはピーターただ一人である。そして、アンビバレンスを一切持たない、という「狂気」は「強さ」として、父親を自死にまで追い込んだ。

 ピーターはマッチポンプであり、「過剰な男性性が女性(母)を壊す」のだとしたら、最強の破壊者はピーターに他ならない。ピーターはインセストタブーさえ合理化することができる最強の自我を持っており、フィルの死によって平和を迎えたと誤解している若夫婦の、夫も標的にしている事をラストで暗示している(自室から見下ろす、ローズとフィルのキスを黙って見つめながら、フィルの「遺品」である、炭疽菌をまぶしたロープをベッドの下に仕舞う。旧約聖書の詩篇の一節を開いたまま)。

 ピーターは、「父が死んだ時」から「母を守ろう」と決めたのでは無い。父の存在を意識した時から殺害は始まり、これからもおそらく続く。これこそが「犬の力」なのである。

 しかし、恐るべきことに、ストーリー自体は「過剰な男性性は女性等々の弱者を激しく傷つけ易いので、そんなことする奴は死ねば良いし、こうして実際に殺されてしまう(まあ、気の毒な側面もないではないが)。男根を振り回したのはフィル1人でーす」そう要約できてしまうのである。

 単純な結論へと向かいたがるSNS時代にあって、単純な結論に向かってはいけない人間ドラマがダブルバインドを起こしている、非常に現代的な作品だと言える。多くの批評や紹介が「マッチョに潰される女性と、その息子の復讐譚」といったあまりにもシンプルな解説をしながら、「とても複雑で深い」と、まるで自己矛盾のような状態に陥り、特に矛盾を感じていないようにしか見えないのは、そのことを端的に現していると言えるだろう。これがNetflixによる「新しい映画」のカラーなのだろうか。アメリカ人でもなく、男性でもない監督のみが受賞した。という事実は、どこまで拠り所にすべきなのだろうか。

■配信情報
Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』
Netflixにて独占配信中
監督:ジェーン・カンピオン
出演:ベネディクト・カンバーバッチ、キルスティン・ダンスト、ジェシー・プレモンス、コディ・スミット=マクフィー
KIRSTY GRIFFIN/NETFLIX (c)2021 Cross City Films Limited/Courtesy of Netflix

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