『わげもん』全4回を通して描いた“言葉”の重要性 永瀬廉の紛れもない代表作に

 永瀬廉が主演を務める土曜ドラマ『わげもん~長崎通訳異聞~』(NHK総合)が、1月29日の第4話で最終回を迎えた。

 壮多(永瀬廉)は長崎を出ていくことを決断する。再会した神頭(高嶋政宏)からの誘いは彼にとって大きかったはずだが、その決意の裏には父・周吾の死を全てなかったことにした長崎に対しての恨みもある。長崎、果ては日本という国のどす黒い内情を知った壮多は、かつての父と同じ立場にあった。

 同じ時代劇として大河ドラマにも負けない一大スペクタクルとして描かれるこの第4話は、壮多が父の殺害を裏で命じた家老・周田親政(武田鉄矢)と対面し、神頭、滝口修二郎(平山祐介)を巻き込む激しい殺陣が展開されるシーン、神頭の家でもある巨大な船が奉行所の役人が放った火矢によって火の海となるラストと画的にも見応えたっぷりの場面ばかりである。

 だが、筆者が思うこの第4話のクライマックスは、壮多と森山栄之助(小池徹平)が対峙するシーン。いや、対峙ではなく、会話とした方が正しいだろう。交渉とは通詞にとっての立会い。長崎に対して大筒を向け狼藉を働く恐れのある神頭の船に、森山は長崎奉行・井戸対馬守覚弘(石黒賢)へと「これがならねば通詞の名折れ、あまつさえ長崎はならず者に屈したとそしらえ誇りば失いましょう」と意見してまで壮多に会いにきたのだった。

 そこで壮多の口から聞いたのは、「俺は確かにここにいた」という存在証明。長崎の人々との出会いによって壮多は同じものを見ていたんだろうなと亡き父に思いを馳せる。それは同時に父もこの長崎という町で生きたという実感でもある。やがて、森山は壮多の思いから紐解かれるように、国や奉行に仕える身分としてではなく、一人の通詞・森山栄之助として言葉を交わしていく。

「違う生まれ、違う言葉、違う目の色。通詞ていうとは、違うもんを一つひとつ繋いでいくのが生業たい。おいはもっとお前と語りたか」

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