菊地成孔の映画蔓延促進法 第2回(前編)

菊地成孔の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評(前編):絵に描いたように<古くて新しい>傑作

『パワー・オブ・ザ・ドッグ』/60年代に書かれた原作を、60年代的映画的な<「大どんでん返し」付きの耽美スリラー>としてガッツリ、尚かつ芳醇な予算による<文芸作=人間ドラマ的な顔つき>と巧妙にミクスチュアした、絵に描いたように<古くて新しい>傑作(前編)。

<鑑賞の座組み>

1)作品選定は連載担当者からの勧め

2)Netflix作品である本作を

3)自宅(厳密には事務所)の液晶42インチモニター

4)公開4週後(昨年12月初旬)に鑑賞

※ちなみに、筆者はNetflix映画は初鑑賞である。作品情報は、筆者のモニター操作力や検索力の低さによって、監督、脚本、主要キャスト以外、ほとんど得ていない。音楽に関してはのちに詳述する。

<ひょっとしてこれがNetflixカラー? だとしたら悪くないよね>

 本作は、「古いボトルに新しいワインを注いだ」という慣用表現が最適格となるような作品で、そしてその慣用表現自体が持つ、独特な「古臭さ」と、それと相反する<今のところ、やや暴走気味である>と明言できるリベラリズム的「現代性(特にここではセクシュアリティを含むあらゆるダイバーシティ)」とのコンビネーションであり、その手さばきは、かなり緻密か、ひょっとして、きわめて乱暴なだけかもしれない。ここが本作の、最も謎の深い点だ。根幹に謎がある。

 原作は60年代に発表され、本作公開まで日本語訳がなかった小説である。原作が書かれた年代が作品の時代性を支配するとは強弁できないものの、本作のテイストの片翼を担う「古臭さ」は、明らかに1960年代、特にヨーロッパ娯楽映画のそれであり、「それ」とは、表題にある通り、<大どんでん返しを結末に持つ、耽美的なスリラー>で、時代的、社会的なテーマ性とか、深い含意などはなく、が故に深く、この時期乱発され、多くの中層年映画マニアの記憶と強く結びついている。ぶっちゃけアラン・ドロンはこんなのばっかりやってるし、巷間、芸術性が高いように目されている『ベニスに死す』も、スリラーでないだけで、やりたいことは概ねこういったことだ。

 主人公は「異様なまでの美少年」か「異様なまでの美少女」で、本作では前者だが、耽美という旗頭にとって、それが少年でも少女でも成立する。というか、トートロジーめくけれども、その交換可能性こそが耽美と破滅=死、という物語の原型であろう。60年代における大衆的多産期に先駆ける助走期名作として、ジャン・マレーの『美女と野獣』のような、<美醜の相同性に慄き、魅了され、そこには死が分かち難く張り付いている物語>とまで拡張してしまえば、原型は古代にまで遡らざるを得ないだろう。

 なので、1963年生まれ、立派な中層年の筆者にとって、本作はドンズバなノスタルジーの<甘さ>と、まだ完全には受け入れきれていない、座りは悪いが、原理的に最もリアルである<現代>という<苦さ>、の両者によるサウナのような効果がある。シンプルにビタースイートであり、これは美味い。厳密には「エグい旨味」のモデルであろう。

 中層年限定を超え、すべての年齢層を含む、大衆的な支持はどうだろうか? ざっくり検索では「批評家にかなり高く評価され、一般層には大体中の上ぐらいに評価されている」ように見えるが、本作に限らず、マスの統一見解(それが捏造だとしても)といったものが見えにくい現代において、そのことより、筆者は「このエグみと癒しのサウナ感覚はなんだ?」と、当たりをつけ、Netflix作品の代表的なものをいくつか鑑賞したら、『ROMA/ローマ』も、『全裸監督』も『浅草キッド』も、『日本沈没』も『消えない罪』も『欲望は止まらない!』(鑑賞順)も、作品の水準とは別に、傾向は大同小異だった。即ち「芳醇な予算感」「強くて新しいエグみ」「奇妙な懐かしさ」である。

 もしこれが、昔日の「五社カラー」のような、制作会社カラーなのであるとすれば、筆者はNetflixを、新東宝(1948〜61年までに存在した日本の映画会社)とほぼ同じ意味で支持する(大映や大蔵映画ではない。筆者は基本的に東宝の支持者である)。すなわち「疲れていない時にはガンガン観たい」。

<おそらくネタバレとあらすじはネットに満ち満ちている>

 であろうから、そちらを参照していただくとして、まずは本作の<大どんでん返し>の構造を明確化する。

 <大どんでん返し>はストーリーライン内だけでも充分成立する。ミステリーのような形式である。本作はそれにとどまらない。本作は、ストーリーライン内に収まらない、「作風」「ジャンル」という大形式上のミスリードがあり(最も有名な例ではヒッチコックの『サイコ』)、つまり、最後の最後で別ジャンルの映画になってしまう。

 この大仕掛は、正々堂々としたミステリーのように、マニアに先を読まれてしまうリスクが少ない代わりに、ほとんどの鑑賞者に「何と評価していいかわからない(ので、陰性感情が生じる、可能性もある)」というリスクを背負う。これがヘッジできれば高い価値であると言えるだろう。

 「結局は、テーマも何もない、美少年耽美スリラー」である本作は、何にミスリードされるのだろうか? 「現代的な文芸作 / 人間ドラマ」である。今回初めて知ったのだが、Netflixの作品詳細の欄には<ジャンル>と別に<この映画は:>という区分があり、<ジャンル>欄にはそのものズバリ「人間ドラマ」とあり、<この映画は:>欄にはなんと、「知性に訴える」とあった。

 「ネトフリすげえな」としか言いようがない。ある意味で、その通りだからだ。しかし本作は、繰り返すが、「おぞましいほどの美少年が主人公の耽美スリラー」で、オリジナル『サスペリア』と大差がない(文芸作の方がなんらかの理由で耽美スリラーよりも優れている、もしくは劣っているという話ではない)。

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