濱口竜介監督作品の鍵は“テキスト的な人間”? 短編集『偶然と想像』を制作した意図を聞く

「テキスト的な人間」が立ち現れるまで

第2話『扉は開けたままで』

――映画を観終えたあと、まさに「偶然と想像」をめぐる話だったと納得するような、素晴らしいタイトルだと思いました。そもそも「偶然」をテーマにしようと思ったのは、どんな理由からだったのでしょう?

濱口:「偶然」をテーマにしようと思ったのは……撮影現場において起きる「偶然」というのは、ものすごく大事だという認識は前からあって。その「偶然」を捉えるというか、その場で偶発的にアクシデントとして起こるようなことを捉えないと、今という瞬間を捉えたことには、なかなかならないというようなところもあるので、「偶然」を捉えるというのは、ずっと撮影上のテーマでもあったんですね。ただ、物語の中で「偶然」を扱うということは、意外とまったく別のことだし、まったく別の難しさがあるなっていうことは思っていて。それは『寝ても覚めても』をやったときに思ったのかな? あの話も、ある種偶発的な要素というのが、物語の中に結構入ってくるので。それをちゃんとストーリーテリングの中に入れ込んでいくというのは、なかなか大変な作業だなっていうことを、そのときに思ったんです。

――『寝ても覚めても』は、まったく同じ顔をした2人の男性のあいだで揺れ動く女性の物語だったわけで……ただそれは、いわゆる映画的な「ご都合主義」とは、まったく違うものですよね。むしろ、そうではない形で「偶然」を描くことへのチャレンジというか。

濱口:そうですね。ストーリーテリングの中で、ごく自然な形で「偶然」を取り扱うとしたら、どういう方向があるんだろうっていう。そのときも、ロメールの映画っていうのは、すごく考えていたところがあるんですけど、要は「こういうことってあるよね」っていうことから、その「偶然」に関しては、一応始めていると思います。現実にあってもおかしくない、誰しもが覚えのあるような「偶然」……少なくとも、自分には覚えがあるような「偶然」というものを、まずは出発点として扱おうと。ただ、その「偶然」によって起きることの大きさっていうものが、だんだん上がっていくような……全体としては、そういうイメージですかね。

――そうやって脚本書いたあと、キャスティングをして、そのあと濱口監督ならではの「リハーサル/脚本の読み合わせ」(※撮影に入る前に、ひたすら俳優たちと脚本を読み合わせる。しかも、感情をこめずに台詞を読み、俳優から「自動的に言葉が出てくる」まで繰り返す)に入るわけですが、その作業というのは、具体的には何を求めて行われる作業なのでしょう?

濱口:そこで、どういうものを求めているかというと……まあ、「いい声」なんですよね。「いい声」っていうものが出てくる状況を待っていると。で、その「いい声」というのは何かというと……現実世界における「声」というのは、いろいろブレがあるわけです。声量が減衰したり、逆に大きく膨らんでしまったりするわけですけど、テキストを読んでいるとか、テキストを覚えた「声」というのは、もうちょっと安定した、振り幅が少ない「声」だったりするじゃないですか。ある言葉を口にすることに関して不安がなくなってくると、その言葉を発する「声」が、どんどん身体の深いところから出てくるような印象があって。それは、いわゆる「腹式呼吸」みたいなものとも違うんですけど、その言葉が本当に身体に馴染んでいくような感じがあって……そういうところまで達すると、ある種「テキスト的な人間」が立ち現れるわけです。

――テキスト的な人間?

濱口:そのテキストを、テキストそのもののように口にできる人間っていうのかな? で、それができてくると、撮影現場において、すごく堂々とした人間像が現れやすいなっていうことを、ある時期から感じていて。脚本読みの段階で、僕が「いい声」と呼んでいるような、すごくリラックスしたオープンな感じの「声」が出てくるようになると、撮影現場でも、本当にその人がその言葉を言っているような感覚が生まれやすいというのがあって。そこを目指してやっている感じですかね。

――なるほど。それは、いわゆる「役作り」みたいなものとは、ちょっと違うわけですよね?

濱口:そうですね。そういう「役作り」的なところも一応あるんですけど、もっとフィジカルな部分というか、即物的にテキストと身体を結びつける感じですかね。いろんな解釈を抜きに、まずはその言葉が言えるようになるっていう。そう、その段階では、その感情面に関しては、こちらではいっさい手をつけないんですよ。そこはもう、撮影現場で役者さんに任せるっていう。

――そうなんですね。

濱口:はい。なので、このやり方の場合は、考えなくても言葉が出てくるような状態で、撮影現場で相手とやり取りをすることになるんですけど、その相手が言った言葉っていうのは、本当にその人が言ったように、やっぱり見えるんですよね。そうすると、それに応じる台詞っていうものにも、そのときに受けたインパクトみたいなものが、乗って返されることになるんです。なので、その台詞というものが――もちろん、その内容は、あらかじめ決まっているんですけど、その言い方や感情みたいなものが、その場で生まれたりするんですよね。

――なるほど。今の話を聞いていても思いますが、濱口監督は「会話/ダイアローグ」というものに対して、並々ならぬこだわりを持っていますよね。

濱口:そうですね(笑)。まあ、こだわりと言えばこだわりなのかもしれないですよね。それ以外のやり方を、今のところまだちゃんと開発していないっていうのもあるんですけど。

――今回の映画は、短編ということもあり、その「こだわり」が、かなり前面に出ているように思いますが、それは一般的にイメージされる「会話劇」とも少し違っていて……テンポの良さや軽妙さ以上に、3作品とも、とてもスリリングな「会話劇」であるように思いました。

濱口:なるほど。スリリングと申しますと?

――言葉のひとつひとつが、あまり信用できないというか……それは我々の日常生活と同じなのかもしれませんが、その人がその言葉をどういうつもりで発しているのか、どこまで本心で言っているのか、そしてそのあとに何を言うつもりなのかわからない、そういうスリリングさがあるような気がして。

濱口:なるほど。それはうれしい感想ですね。そうであったらいいなと思って作っているところではあるので。結局、台詞というのは……脚本に書かれた段階で、ある程度腑分けすることはできるわけですよね。ここはこの人の本心だけれども、ここはある種表面的なことを言っているんだみたいな。そういうことを、あらかじめ演技の設計としてすることはできると思うんです。本当のことを言っているときは、より本当らしく言おうとか。ただそれは、恐らく役者さんが思うほどには上手くいっていないような気がするんです。なぜなら、みんなちゃんと見ているから。少なくともちゃんと見ている人は必ずいるので、それは「本当らしく言おうとしているだけだ」ということが、ある程度見透かされるところもあるわけです。ただ、今回の映画の場合は……この台詞が本心なのかどうかということを、恐らく役者たちが、その瞬間に決めるような感じで言っているんじゃないだろうかと思います。それがまあ、スリリングということなのかなと思うんですけど。

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