『浜の朝日の嘘つきどもと』“場”の大切さを訴える 高畑充希たちの奮闘が意味すること

 さて、本作における“小ネタ”の話が長くなってしまったが、この物語のより深部に触れてみたい。この物語は「朝日座再建」の話ではあるが、“家族”や、いま重要視されている“つながり”の物語でもある。主人公の茂木莉子はなぜ偽名を使うのか。そのひとつには、自分の名を嫌っているというのがあるだろう。名前とは、個を共同体に帰属させるものだ。“浜野あさひ”という名は、“浜野家”という共同体に縛りつけられている。それを拒否する姿勢を示すため、彼女は自らを茂木莉子だと名乗った。そして、先に述べたように名前とは、やはり環境によっては記号でしかないのだろう。支配人である森田保造と茂木莉子の関係において、名前は何をも示しはしない。彼女は、仮にも支配人である年配の森田のことを「じじい」と呼んでいるくらいだ。ここには血縁や、関係性に縛られることのない“つながり”がある。これを介しているのが、映画であり、映画館という「場」なのである。茂木莉子は、恩師・田中茉莉子の願いを聞き入れ、自らの意思で行動している。彼女らをつないでいたものこそ、映画であり、映画をともに観た空間だったのだ。

 印象的な言葉がある。それは「家族とは幻想」というものだ。いくら血のつながりがあり、同じ時間を過ごしていたとしても、ふとしたことがきっかけでそれは簡単に崩れてしまう。とはいえ、家族にかぎらず、友人関係、恋人関係、何かのチームメイト……どんな共同体においても同じことである。関係性の深さを示すのに「時間は関係ない」という言い方をすることがあるが、映画館でともにスクリーンを見上げる者同士の間に生まれる連帯感は、まさにこれだろう。たとえ90分か120分の刹那のできごとであっても、ともに何かを分かち合うという体験は尊い。そこで何かを理解し合えたのであれば尚のこと。

 映画館という「場」の大切さを本作は描いているが、この大切な「場」とは、置き換えてみれば人によってさまざまだと思う。そのために、私たちは何をすべきか。そこで取った自身の行動に対して、「これで良かったのか?」と思うことはあるだろう。しかし、誰もが差し迫った状態にある現在。「これで良かったんだ」といえるようにしていくしかないのだ。“茂木莉子たち”の奮闘は、そのことを優しく伝えようとしている。

■公開情報
『浜の朝日の嘘つきどもと』
全国公開中
脚本・監督:タナダユキ
出演:高畑充希、柳家喬太郎、大久保佳代子、甲本雅裕、佐野弘樹、神尾佑、光石研、吉行和子、竹原ピストルほか
製作プロダクション:ホリプロ
配給:ポニーキャニオン
(c)2021 映画『浜の朝日の嘘つきどもと』製作委員会
公式サイト:hamano-asahi.jp

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