ドキュメンタリー映画に刻まれた、ビリー・アイリッシュが“スーパースター”を引き受けた理由
ゴシップ系ウェブメディア、どこに行っても向けられる一般人のスマホのカメラ、その映像や画像が即時にアップされるソーシャルメディア。現代においてスーパースターであるということは、この地球全体を舞台とした巨大なリアリティショーの主人公になることを引き受けなくてはいけないということだ。いや、映画の『トゥルーマン・ショー』のようにリアルタイムでその一挙手一投足が世界中に同時中継されるだけだったり、『カーダシアン家のお騒がせセレブライフ』のように自ら「ショー」に飛び込んで偽悪的に振る舞うことができたりするのだったらまだマシだ。世界のどこかの誰かが保存していた過去の映像や画像や投稿、いわゆるデジタルタトゥーは、まだ一般人だった頃、まだ子供だった頃のものも含めて容赦なく「現在」へと襲いかかり、時にはキャンセル騒動まで発動させる。『ビリー・アイリッシュ:世界は少しぼやけている』には、そんな時代にスーパースターとなった一人の少女の、17歳になる直前から18歳になったばかりまでの日々が記録されている。
最初に留意すべきなのは、本作はジャーナリスティックなアプローチや批評的なスタンスから、この10代のスーパースターの実像を浮き上がらせる、という作品ではないということだ。近年、急速に増えている(レジェンド・アーティストの伝記的な作品ではなく)現在まさに人気のピークにあるまだ若いアーティストの特定の活動期間を切り取ったドキュメンタリー作品は、大手ストリーミングサービス各社による新規契約者争奪戦におけるキラーコンテンツになっているという側面ともう一つ、先述したような狂騒的な環境に置かれているスーパースターが、自己発信としての作品を世に送り出すことによってアーティスト・イメージをコントロールする必要に駆られているという側面がある。実際、映像の持つ力は強大で、ビリーの熱心なファンであっても、「bad guy」くらいしか知らないという人であっても、本作を観る前と観た後では、このスーパースターへの理解が飛躍的に深まったような気持ちになるに違いない(特に後者は、ビリーの創作における兄フィニアス・オコネルの貢献度の大きさに驚かされることだろう)。
もちろん、本作でビリーが家族や友人と話していること、創作ノートにイラストや言葉を書き溜めて、フィニアスと共に楽曲を作り上げている様子、運転免許証をとって喜ぶ姿、恋人が電話に出ないことにイラつく姿、コーチェラでのライブの前に不安に苛まれる姿、ステージの上や会場の外で熱狂的なファンと交流する時の嬉しそうな表情、などに嘘はないだろう。ただ、このような作品にはアーティスト・サイドが「本当に見せたくない姿」は映っていないということだ。たとえそれが、ライブが終わった後、バックステージで業界人に囲まれて挨拶や記念撮影をこなさなくてはいけないことにメンタルをやられて、彼女のマネージメントをしている両親に当たり散らしている姿であったとしても、編集でカットされずに作品に残されている映像には、ジャーナリズムや批評的な視点ではなく、アーティスト本人の意図が正確に反映されている(例えば、「業界人嫌い」というのは多くのアーティストが好む自己イメージだ)。
実際のところ、ビリーの過去に前例がいないほどのスピード感とスケール感をともなったメガサクセスには、この作品で中心的に描かれている「家族」と「ファン」、そして本人(とフィニアス)の音楽的才能以外にも、ストリーミングサービス以降の音楽業界のシステムに最適化して、その恩恵を最大限引き出してみせた、間違いなく世界で最も優秀なスタッフ・ワークも大きく寄与している。しかし、本作は「ビリー・アイリッシュがトップアーティストになった理由」みたいな音楽ビジネス的な関心に応えるような作品ではない。あくまでもその焦点はビリー、その「人」にある。