ドキュメンタリー映画に刻まれた、ビリー・アイリッシュが“スーパースター”を引き受けた理由
それをふまえて、本作で自分が特に印象深かったことを二つ。一つは、Z世代の代弁者のように散々語られてきて、ジェンダーやメンタルヘルスの問題などについてもその影響力が期待されてきて、その期待にも十分に応えてきたビリーの、LAで生まれ育った現代のアメリカのティーンとしての「ヘルシーさ」だ。イージー・EのTシャツを着て、自宅の棚にはタイラー・ザ・クリエイターのレコードとランボルギーニのミニチュアカー。マツダやホンダのクルマに乗っている家族のことを「私は負け犬たちに囲まれて暮らしてきた」と冗談っぽくディスり、子供の時から憧れてきた黒のダッジ・チャレンジャーを手に入れて狂喜乱舞する。過干渉気味(まあ、これについてはこの状況ならば仕方がないと言えるが)の両親が、ビリーに内緒でダッジ・チャレンジャーのエンジンを安全のためにデチューンしていることが語られた時は、「おいおい、なんてことしてくれるんだ!」と思わず画面に向かって叫びたくなった(マジで、ビリーも後からこのシーンで真相を知って強いショックを受けたのではないか)。
もう一つは、本作で度々本人や家族から語られ、メールで本人同士もやりとりをして、コーチェラのアリアナ・グランデのライブの真っ最中に感動的な初対面を果たすことになる(もっとも、この時の映像に関してはファンならばソーシャルメディアで散々見てきたものだろうが)ジャスティン・ビーバーとの交流だ。冒頭に述べた「この地球全体を舞台とした巨大なリアリティショーの主人公になることを引き受けなくてはいけない」という点において、最大の当事者であり続けてきたジャスティン。現在のビリーが置かれている環境の異常さについて、そのすべてをくぐり抜けてきたジャスティンが一番理解できるのではないかというのは作中で語られていることだが、自分が思ったこととはちょっとだけニュアンスが異なる。ビリーにとって、ジャスティンはこの世界に生きる意味を与えてくれた本当の意味でのスーパースターだった。今、世界中の多くのファンにとって同じような立場となったビリーが、その役割をなんとか引き受けることができているのは、その経験があったからこそなのではないか。言い換えるなら、スーパースターの役割を背負い、それをまっとうすることができるのは、人生で誰かをスーパースターとして偶像視したことがある人間だけなのではないかということ。そういう意味で、ビリーはやはり「現代のカート・コバーン」などではまったくなく、ランボルギーニを転がしてラッパーたちとつるんできたジャスティン・ビーバーからバトンを受け取った存在なのだろう。
■宇野維正
映画・音楽ジャーナリスト。「集英社新書プラス」「MOVIE WALKER PRESS」「メルカリマガジン」「キネマ旬報」「装苑」「GLOW」などで批評やコラムやインタビュー企画を連載中。著書『1998年の宇多田ヒカル』(新潮社)、『くるりのこと』(新潮社)、『小沢健二の帰還』(岩波書店)、『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア)。最新刊『2010s』(新潮社)発売中。Twitter
■公開情報
『ビリー・アイリッシュ:世界は少しぼやけている』
全国公開中
監督:R・J・カトラー
出演:ビリー・アイリッシュ、フィニアス・オコネル、パトリック・オコネル、マギー・ベアードほか
配給:シンカ
2021年/アメリカ/140分/原題:Billie Eilish: The World's a Little Blurry
(c)2021 Apple Original Films
公式サイト:https://www.universal-music.co.jp/billieeilish-theworldsalittleblurry/
劇場リストサイト:http://eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=BillieEilish