宮台真司インタビュー:『崩壊を加速させよ』で映画批評の新たな試みに至るまで
社会学者・宮台真司がリアルサウンド映画部にて連載中の『宮台真司の月刊映画時評』などに掲載した映画評に大幅な加筆・再構成を行い、書籍化した映画批評集『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』が、リアルサウンド運営元のblueprintより刊行された。同書では、『寝ても覚めても』、『万引き家族』、『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』、Netflixオリジナルシリーズ『呪怨・呪いの家』など、2011年から2020年に公開・配信された作品を中心に取り上げながら、コロナ禍における「社会の自明性の崩壊」を見通す評論集となっている。
このたびリアルサウンド映画部では、著書の宮台真司にインタビューを行った。前作『正義から享楽へ』発表直後に誕生した米トランプ政権に対する評価から、「存在論的転回の再考」に至った学問的経緯、さらに映画批評へと本格復帰を果たすまでの思想的変遷について、たっぷりと語ってもらった。(編集部)
「自分は楽天的すぎたかもしれない」
ーー前作となる映画評論集『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』から4年余り。本書で宮台さんは、前作を出してからしばらく映画批評から離れていた時期があった、とお書きになっています。
宮台真司(以下、宮台):一口で言うと、前作を上梓した直後から、自分は楽天的すぎたかもしれないと強く反省したんです。僕の映画評はその時々のゼミの内容に対応していますが、それまでのゼミでは、人類学をメインに据え、進化心理学・分子考古学・政治学・経済学などで補いながら、次のように語っていたんです。
僕らの社会は<交換>で成り立っているが、古い社会では<贈与>だった。少なくとも起点に<贈与>があったと意識されていた。でも僕らはそれを忘れた。そのことがあらゆる不安とそれによる「感情の劣化」の源泉だ。だから「感情の劣化」からの回復の手がかりを<贈与>の記憶の回復に探ろうーー。
でも、2017年以降、それは楽観的だと思うようになりました。前著『正義から享楽へ』ではトランプ当選の待望を公言していました。人々は問題を民主政の故障に求めていますが、むしろ民主政の作動に問題はなく、人々の「感情の劣化」を正確に映し出した結果なのであって、「感情の劣化」への気付きをもたらすにはトランプ当選がベストだと思ったんです。
そこには「人々が気付くだろう」という楽天的な前提がありました。たぶん希望を事実と取り違えたんですね。人間にはよくあることです(笑)。むしろ人々の大半は永久に気付かないだろうと思い直すようになりました。ピーター・ティールやニック・ランド流の加速主義を知ったのが契機です。ゼミでも徹底的に何度も議論してきました。
加速主義の思想自体は、戦間期のアントニオ・グラムシやローザ・ルクセンブルクの焼き直しに、学園闘争時代のヘルベルト・マルクーゼのテクノロジズムをまぶしただけの、実に凡庸なものです。しかもルーツに触れてもいないという御粗末さ。でも問題はそこじゃない。なぜ戦間期マルクス主義の劣化版が今登場するのか。そこに最大の問題があります。
民主政は民主政以前的な前提としての「感情の豊かさ」ーージャン・ジャック・ルソーのピティエーーを要求するから、「豊かさ」を支えた特殊な前提を二度と再現できない以上、民主政は出鱈目な決定を出力し続けるしかない。この彼らの診断は正確です。だから「制度による変革」ならぬ「テックによる変革」希望を託し、自分たちはテックテザイナーになるーー。
具体的には、ゲーミフィケーションとドラッグが産み出す幸せ感euphoriaがあれば、感情が劣化したクズどもへの再配分を含めた、馬鹿げた「制度による変革」を、キャンセルできるだろうと。これは晩期マルクーゼの「本来の人間を回復するのためのテック」という思考に内在する弱点ーー誰がテックをデザインするのかーーに正確に対応しています。
豊富なデータと進化心理学をベースにしたアンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』は、日本語版の副題「スティーブ・ジョブズはわが子になぜiPadを触らせなかったのか?」が示すようにデザイナーとユーザーの情報非対称性を問題にします。デザイナーは知るがユーザーは知らないという非対称性を放置したままデザイナーにテックを預けるのは、馬鹿正直過ぎます。
でも、テック化それ自体に反対するのは、人類史を無視した暴論です。「人間中心主義の非人間性」を支援する悪いテックと、「脱人間中心主義の人間性」を支援する良いテックを識別し、テックデザイナー(の卵)らに訴えるのが現実的です。そこで「存在論的転回」という問題を徹底的に考え直さなければならないと思うようになった、という訳ですね。
先の二項図式を「世界から閉ざされたテック」と「世界へと開かれたテック」とパラフレーズできます。「世界から閉ざされることは、社会に閉じ込められること」です。ここで世界とは「あらゆる全体」で、社会とは「ありうるコミュニケーションの全体」。さて、なぜ世界から閉ざされること=社会へと閉ざされることは、いけないのか。単なる僕の好みか。
2017年に反省した僕は、それをちゃんと語っていなかったなと思い至り、語彙を揃えるべく、第一次の存在論的転回を駆動したハイデガーと、第二次の存在論的転回を駆動したラトゥール、スペルベル、コーン、デカストロを学び直そうと思って、連載を休止しました。僕の問題意識は、なぜ存在論ontologyへの回帰が重要か、と言い直すこともできます。
この問題意識は、僕の考えでは、斉藤幸平『人新世の資本論』がマルクスを借りて語る「資本化して構わないもの/資本化してはいけないもの」の識別に関連します。従って、思弁的実在論 ーー第二次存在論的転回の哲学版ーーが重視する大絶滅問題にも関連します。だからゼミでは量子物理学の多世界論や宇宙物理学の多宇宙論まで扱うようになったんです。
つまり従来と違って「社会から世界へ」と推奨するだけじゃなく、1.世界とはそもそも「何」か、2.なぜ世界へと開かれることがなぜ「良い」か、3.何が世界への開かれを阻害して社会への閉じ込めをもたらすか、を記述するという目標を立て、<閉ざされ>と<開かれ>というキーワードを持ち込み、映画を通じて<開かれ>のクオリア(後述)を語ろうとしました。
ーーあらためて、「映画を通じて語る」意味とは。
宮台:僕が『サイファ』(2000年)以降映画評を始めた理由は、学問的枠組で語れないことがあまりにも多いからです。例えば、倫理を学問で基礎付けるのは困難でも、クオリアに照らせば自明です。この「クオリア>基礎付け」図式を最初に提案したのが、フリッパ・フットが考えたトロッコ問題をベースに「感情の越えられない壁」を持ちだしたマーク・ハウザーです。
マイケル・サンデル『白熱教室』がハウザーに則るのは「クオリア>基礎付け」だからです。クオリアを体験質と訳します。クオリア問題とは「僕とあなたが同じ夕日を見て赤いねと頷き合ったとして、体験しているのは同じ赤か」という問題です。自然主義(科学)的には赤の同じさを証明できませんが、意味論(言語ゲーム論)的には同じ赤を前提とします。実は体験質が鍵です。
難しい話をしていません。若い世代にレクチャーすると「うんうん」と頷きつつ聞いてくれても「本当に分かってるのか」と思うことが多い(笑)。試しに「理屈は分かるか」と尋ねると首を縦に振りますが「実感で納得できるか」と尋ねると横に振る。これは重大です。だから、僕の郊外論の語りを、60年代や80年代の映画から得られる体験質で補強するようにしました。
話はそこで済みません。シニフィアン・シニフィエの二項図式を批判し、記号は引き金だとして解釈装置を重視する三項図式(対象・記号・解釈装置)を提唱する生物学者ジェスパー・ホフマイヤーを待つまでもなく、映画体験の情報量は、映画の情報量より膨大ですが、僕が同世代の監督の作品を観た時の体験情報量より、若い学生の体験情報量は少ない。
この例は単純化してあるものの、先のクオリア問題の系です。であれば、このクオリア問題は全てのコミュニケーションに付き物です。つまり、遠く離れた時代の文書(源氏物語など)が本当に分かるのか(ガダマー)、全く異文化の人の語りが本当に分かるのか(テイラー)といった解釈学的問題が、僕とあなたのコミュニケーションにも「常に既に」あることになります。
音楽での経験を話します。佐藤伸治(フィッシュマンズ)が1999年3月に亡くなり、くるりが2002年2月に「ワールズエンド・スーパーノヴァ」を出した時、僕は岸田繁(くるり)の佐藤へのオマージュだと思いました。バックビート云々の歌詞の本歌取りもあるけど、渋谷に徒歩20分という佐藤のプライベートスタジオの近所(世田谷)に長年住んだ僕の体験質が前提になります。
本書にある通り渋谷は96年に冷えました。同年の佐藤の『空中キャンプ』における「現実を夢のように生きる」夜の闇モチーフはその絶望を歌うものです。それが97年『宇宙 日本 世田谷』では朝の光モチーフに変わり、逆説的に絶望の深化を感じました。朝は光に満ちてどこかに行けそうで、どこへもいけない。だから、ここを無理に読み替えるしかないーー。
「ワールズエンド・スーパーノヴァ」の、どこまでも行けるという歌詞を聴いた瞬間、どこにも行けないことの反語表現に打ちのめされました。それを多数の学生に話すと、大抵が考え過ぎだとの反応でした。すぐ岸田自ら監督したMVを見せました。夜のとばりから、絶望の朝へ、再び夜へという構成で、全員が納得しました。さてこの逸話は何を意味するか。
MVの文脈補完機能を肯定したいんじゃなく、体験質による体験質の補完機能という普遍的摂理を肯定したいんです。言葉だけじゃ伝わらない。だから音楽を聴かせる。でも音楽だけじゃ伝わらない。だから映像を見せる。そんな営みを反復することで漸く、僕らは表現者の世界体験(世界をそもそもどうなっていると体験していたか)にアクセスできるんです。
解釈学の言い方だと、異なる時代や文化に跨がった異なる個体同士の「地平の融合」を図る営みです。BよりもAがいい、<閉ざされ>よりも<開かれ>がいい、という命題は、それを語るだけでは伝わらず、コンテンツを見せて初めて少し伝わり、更に他のコンテンツを見せてもっと伝わります。この経験的摂理を、本書の元になる連載では常に意識しました。