『エヴァ』を唯一無二の作品にした選曲の“いびつさ” 音楽的気持ち良さが滲む独特の編集

 先日、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(以下『シン・エヴァ』)をIMAXで鑑賞した。TVシリーズ放送から実に26年、新劇(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)の『序』公開から数えても14年、さらに前作『Q』から9年ぶりに公開された『シン・エヴァ』は、果たして筆者の期待と予想を遥かに超える素晴らしい内容だった。

 広げ過ぎた大風呂敷を放り投げることもせず、各キャラクターが長年背負ってきた「業」にもしっかりと向き合い、そこに何らかの決着を見出し(『スター・ウォーズ』エピソード1〜6がアナキン・スカイウォーカーの物語であったのと同様に、『エヴァ』は碇ゲンドウの物語でもあった)、碇シンジら「チルドレン」と呼ばれるエヴァンゲリオン・パイロットだけでなく、私たち『エヴァ』に取り憑かれてしまったファンをもその軛から解き放つようなラストには、監督である庵野秀明の「誠意」と「優しさ」をひしひしと感じたのだった。

 否、それだけではないだろう。『エヴァ』に決着をつけることは、庵野が自身の人生を前に進めるために避けては通れない課題だったはず。先日放送されたNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル』の中で、庵野はこう語る。「始めちゃったからには終わらす義務がある」「それは自分に対しても、スタッフに対しても、一番大きいのはお客さんに対しても」と。

 『エヴァンゲリオン』という自身の「プライヴェートフィルム」が、決して少なくない人々の人生と分かち難く結びついてしまったこと。そのことへの「責任」と「義務」を背負い続けたのが、庵野秀明にとっての26年だったのかも知れない。『プロフェッショナル』の後半、番組のディレクターから「作品に命を賭けられるのはなぜなのか」と尋ねられた庵野が、「他にやれることがないから。僕が最大限、人の中で役に立てるのがそこくらいしかない。世間にはそれくらいしか役に立たない」と答えていたのが何よりも印象的だった。

 優れた「プライヴェートフィルム」や「私小説」に触れると、「これはまさしく自分のための作品だ」という気持ちにさせられることがある。『エヴァ』を観た人が、ついつい「自分語り」を始めてしまうのは、つまりはそういうことだろう。ここでは、今年で52歳となる筆者が当時、『エヴァ』の衝撃をどう受け止めたのか、特に音楽的な側面から思い出す限り書き記していこうと思う。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997年)を当時映画館で6回鑑賞し、惣流・アスカ・ラングレーのガレージキットを自分で塗装するくらいにはハマっていた自覚はあるものの、「マニア」というほどのガチ勢ではない、そんな筆者の「自分語り」にしばしお付き合い頂けたらと思う。

 初めて『エヴァ』の存在を知ったのは、1996年3月だった。TVシリーズの、あの伝説の二話(第弐拾伍話『終わる世界』と最終話『世界の中心でアイを叫んだけもの』)が放送され、「めちゃくちゃヤバいアニメがある」という噂が、当時アニメからはすっかり遠ざかっていた筆者(26歳)の耳にも入ってきたのである。TVシリーズ全話をVHSに録画していた友人から早速借りて、第壱話『使徒、襲来』から順番に鑑賞していった。葛城ミサトのマンションで繰り広げられる、シンジとアスカのコミカルなシーンや、次回予告の決め台詞「この次も、サービスサービスぅ」など、いかにもなアニメっぽいノリが最初はとても抵抗を感じたが、次第にその革新的な作品の世界にズブズブとハマっていった。気づけば家にはコミックを始め、数々の「謎本」や、『STUDIO VOICE』の「エヴァ特集」、『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』などが積まれていた。

 今となっては極々「当たり前」の設定なのかも知れない。が、例えばエヴァンゲリオンが実は「戦闘ロボット」ではなくて、外部装甲により拘束された「人造人間」であること一つとっても、当時は衝撃だった。暴走した初号機が、使徒と化した「最強の使徒」と呼び声の高いゼルエルを貪り食うシーン(第拾九話『男の戰い』)は、文字通り開いた口が塞がらなかった。そもそも使徒と呼ばれる謎の生命体(?)が、(ストーリーの途中までは)なぜ第3新東京市を不定期で襲ってくるのか、その目的すらよく分からない。それは「ウルトラ怪獣」などのオマージュでもあるわけだが、その理不尽な存在は「敵」や「悪」というよりもむしろ、「天災」「厄災」に近かった。

 思えばこの頃は、「阪神・淡路大震災」(1995年)や、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」(同年)、当時14歳の少年が逮捕された「神戸連続児童殺傷事件」(1997年)など理不尽な天災や、陰惨な事件が相次ぎ、「1999年に人類が滅亡する」とされていた「ノストラダムスの大予言」を前に、この時期が一番「この世界は一体どうなるんだろう?」という漠然とした不安を心に抱えていたように思う。そうした心に「セカンドインパクト」や「死海文書」、「使徒の襲来」「パイロットは14歳」といったエヴァの設定が、グサグサと刺さりまくったのだ。

 これも今となっては一種のテンプレとなっているが、『エヴァ』における音楽の使い方も本当に斬新だった。例えば、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(1997年)の予告編で、夥しい映像のコラージュと共に使用されたベートーヴェンの「交響曲第9番」第4楽章と、ヴェルディの「怒りの日 (Dies irae)」(『レクイエム』)は、エヴァのイメージを決定づける要因の一つとなった。また、『Air/まごころを、君に』におけるアスカとエヴァ量産機との死闘シーンでは、バッハの「G線上のアリア」(「管弦楽組曲第3番第2曲」)を用いており、アニメ史上に残る名シーンを厳かに彩った。

 ある意味、映像の内容とは相反するイメージの音楽を敢えて使用し、観る者にこれまで味わったことのない感情を想起させるのは、『エヴァ』の十八番だ。新劇『破』では、アスカが乗るエヴァ参号機に、シンジが乗る初号機が襲い掛かるシーンで“いつまでも絶えることなく 友だちでいよう”と歌われる昭和の名曲「今日の日はさようなら」(1967年)を、シンジが「ニアサー(ニア・サードインパクト)」を発動させるシーンで赤い鳥の「翼をください」(1971年)を使用しているところなど、その象徴的な例だ。