“式典”としての『シン・エヴァンゲリオン劇場版』 前3作との大きな違いと“物語の終わり”

 『シン・エヴァンゲリオン』と前作までの『序』、『破』、『Q』の3本はストーリー的には地続きなものの、作品としては大きな違いがある。それは前述したように『Q』から9年経ったこと、その間に庵野監督が『シン・ゴジラ』などの別作品に着手したことが大きく、ハッキリ言ってしまえば『シン・エヴァンゲリオン』は断トツに面白いのだ。その理由は、例えばタイトルの表記を「ヱヴァンゲリヲン」から「エヴァンゲリオン」に変えていることや、『序』と『破』の画面はビスタサイズで、『Q』と『シン・エヴァンゲリオン』はシネマスコープサイズであることなど、見て一発でわかる“違い”と同じように、アニメーションやストーリーテリングが前3作と“違う”からだ。『シン・エヴァンゲリオン』において「アニメの作り方を変えないとこれまでの3本の延長にしかならない」と言った庵野監督の意気込みが達成されていることは、冒頭10分のバトルシーンと、そこから始まるAパートだけ観てもすぐにわかるだろう。

 冒頭10分のバトルシーンがこれまでと違うのは、横長のシネマスコープサイズの画面でバトルをいかにわかりやすく見せるかの正解を見つけている点だ。登場人物たちと敵の位置関係、どうすれば勝ちなのかというルール設定、同時進行する2つのドラマの描き分け、すべてがバトルへの没入度を高めるようにシンプルになっている。そして、このバトルの熱狂冷めやらぬうちに、すぐにAパートが始まるのだが、ここに度胆を抜かれた人は私だけではないだろう。このAパートではSF作品お馴染みの「限定空間でのコミュニティの暮らし」が描かれているのだが、まず、そのデザインに驚かされる。日本の風俗史や、東日本大震災以降の日本の現状、そして、“プラグスーツ”などに代表される『エヴァンゲリオン』ガジェットの文脈が組み合わさり、見たこともないコミュニティの風景が広がる。

 さらに、この風景の異様さに拍車をかけるのが、ここで採用されているアニメーション表現で、画コンテではなく、バーチャルカメラやモーションキャプチャによるプリヴィズをベースに作っている結果、アングルとキャラクターたちの動きが新しいアニメーション的皆楽に満ちており、素晴らしい点を挙げたらキリがないのだがーー例えば画面の外から歩いてくる人物を、奥から歩いてくる人物がサッと避ける足元だけを映したショットだけでも、フレッシュな驚きがあるのだ。このAパートの制作方法を庵野監督は「肥大化したエゴのアンチテーゼ」と語る。それは全てが自分のコントロール下にある画コンテというエゴを捨て、アクシデント的に発生する外部要因でアニメーションを作るということ。この制作方法が『エヴァンゲリオン』の「終わり」に採用されたことは偶然ではないだろう。

 宮崎駿監督『風立ちぬ』(2013年)の主人公・堀越二郎は「美しい飛行機をつくりたい」という夢の実現と引き換えに、最愛の人を失い、日本を滅ぼしてしまう人物だが、その声優を務めた庵野秀明もまた、その才能で90年代以降の日本を決定的に変えてしまった人物だ。『エヴァンゲリオン』はカルチャーだけではなく、この国の価値観にまで影響を与え、それは必ずしも良い影響だけではなかった。そんな90年代の文脈が『序』と『破』には色濃く反映されており、時代を超えても色褪せないデザインに対して、作品内の価値観は90年代で止まっていることに違和感があったのだが、その違和感は『Q』で少し変わり、『シン・エヴァンゲリオン』では決定的に変わっている。

 たしかに『シン・エヴァンゲリオン』でも女性キャラクターの身体の描き方やセリフの端々から、ジェンダーロールやポリティカル・コレクトネスへの意識が、2020年代のエンターテインメントの基準たりえるのか?と疑問に思うところはある。しかし、本作には日本のアニメーションのひとつの「様式美」と、2020年代の価値観を同時に描くことの葛藤もたしかにあり、冒頭でいきなり「この恥ずかしい格好(プラグスーツ)はエヴァパイロットだけにしてほしいわ」と呆れ気味で登場人物に語らせるのも、葛藤した痕跡のひとつだろう。この葛藤も偶然ではなく、『シン・エヴァンゲリオン』は『エヴァンゲリオン』が作り上げてしまった90年代的価値観も作品内で「終わり」にしようとしており、その批評性こそが、本作を“現在”の作品にしているのだ。

 青春時代特有の不安定な移動をカメラに捉えることが、優れた青春映画の条件だが、『シン・エヴァンゲリオン』において、その不安定な移動も終わりを迎える。14歳の主人公“シンジ”は眠りからハッと目を覚ます度に「ここが本当に自分の居場所なのか?」と自問し続けるキャラクターであり、その迷いは本作のAパートでも描かれている。「セカイ系」と呼ばれるジャンルへの、ひとつの解答としてのAパートは、残念ながら「セカイは終わってくれない」ことをシンジに痛感させる。人々はどんな時代でもたくましく生きていく、そして、やはりここもシンジの居場所にはなりえないのだ。では、どこへ? 「逃げちゃダメだ」の終着駅はどこにあるのか?

 『シン・エヴァンゲリオン』が「式典」として『アベンジャーズ/エンドゲーム』と決定的に違うのは、本作がほとんど「庵野秀明の自主製作」と言っていい体制で作られているため、誰もが知るポップカルチャーでありながら、私小説としての側面が強いことである。私小説の「終わり」として、ラストでアニメーション作りの原点に立ち返るように、庵野秀明がまだダイエーの計算用紙に一人で描いていた頃のアニメ作品『へたな鉄砲も数うちゃ当たる』や『じょうぶなタイヤ』といった作品を彷彿とさせる演出が装入された後で、シンジの居場所探しの旅も終わる。私が『シン・エヴァンゲリオン』を一人でも多くの人に劇場で鑑賞してほしい理由は、この映画はそこで終わらないからである。この映画が真に終わるのは私たちが劇場から外へ出る瞬間、そこで終わるのだ。その瞬間からあとのことは、我々は何ひとつ知らない。劇場は今、そんな“場所”になっている。ぜひ、体験してみてほしい。

■島崎ひろき
8月に5曲入りのEPを出すとか出さないとか。Twitter

■公開情報
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
全国公開中
企画・原作・脚本・総監督:庵野秀明
監督:鶴巻和哉、中山勝一、前田真宏
テーマソング:「One Last Kiss」宇多田ヒカル(ソニー・ミュージックレーベルズ)
音楽:鷺巣詩郎
制作:スタジオカラー
配給:東宝、東映、カラー
上映時間:2時間35分
(c)カラー
公式サイト:http://www.evangelion.co.jp
公式Twitter:https://twitter.com/evangelion_co

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