完成度はディズニーの歴史上随一 “体感型”の『ファンタジア』は映画館で真価が味わえる

 さて、『ファンタジア』の内容とは、どんなものだったのか。一言で表現するならば、それは、「クラシック音楽とアニメーション映像の融合がもたらす“体感型映画”」である。「音の魔術師」との異名をとるレオポルド・ストコフスキーの指揮のもと、フィラデルフィア管弦楽団が演奏する8つの楽曲に合わせ、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの優れたアニメーターたちが、そこに視覚的な解釈を加えていくのだ。

 最初にアニメーションで表現されるのは、バッハ作曲の「トッカータとフーガ ニ短調」。オーケストラの各楽器の奏でる音色に合わせ、抽象的なアニメーション映像が展開する。雲間から降りてくる陽の光や、水面に反射する光などが幻想的に描かれ、音楽の世界を感覚的に描出していく。アーティスティックなセンスと職人的な技術が、高いレベルで発揮されている、まさに美しい宝石のような映像だ。

 この部分には、実験的なアニメ作品を製作していた、ドイツ出身のオスカー・フィッシンガーの助力を受けている。フィッシンガーが映像作品を作り始めた時代、映画発祥の国フランスでは、映画を使った芸術運動が起こっていた。その一つが、「純粋映画」といわれる取り組みだ。これは、多くの映画作品で表現される演劇的な物語から映画を解放しようという試みである。いまでは、そのような方向性の表現は「ミュージック・ビデオ」や「ビデオ・インスタレーション」などへと受け継がれている部分があるが、ディズニーはそのような映像表現を映画館の大画面と専用の音響設備によって、あたかもオーケストラのコンサートを聴きにいくのに近い感覚で楽しんでもらおうとしたのである。

 これによって、ディズニーは劇映画以外の映画のかたちを勢力的に模索し、スタジオの力を複数のラインに分けながら、芸術の最前線でも力を発揮させようという意図を持っていたことが分かる。その一方で、本作は抽象的な表現を脱し、ディズニーらしいキャラクターを登場させたパートも用意している。象徴的なのが、ミッキーマウスが登場する、フランスの作曲家デュカスによる「魔法使いの弟子」のパートである。セリフはないものの、ここでは唯一、起承転結のはっきりした物語が展開する。

 ここでは、“Disney(ディズニー)”のスペルを逆から読んだ、「イェン・シッド」という、気難しそうな魔法使いが登場。ミッキーが演じる彼の弟子が、魔法使いの留守の間に、修行を怠けて魔法でやりたい放題することで、取り返しのつかない事態となっていく。ディズニーはもともと、「シリー・シンフォニー」という芸術性の高いシリーズにおいて、このエピソードを完成させようとしていたが、思った以上に製作費がかかったことで、本作に合流することになったという。

 この「純粋映画」風のパートと「ミッキーマウスの物語」を両極に、本作は感覚的な世界の表現とキャラクターの魅力という、二つの価値観の間で観客を楽しませていく。チャイコフスキー作曲の「くるみ割り人形」のパートでは、キノコの集団や愛らしい金魚など、可愛らしいキャラクターの仕草に心揺さぶられる。

 さらには、地球の誕生から生物の発生、恐竜の時代を、ストラヴィンスキー「春の祭典」に乗せて描き、ベートーヴェン「田園交響曲」では、ギリシア神話をベースとしたペガサスやケンタウロスの存在する世界の光景が描かれていく。そして最後には、ムソルグスキー「はげ山の一夜」、シューベルト「アヴェ・マリア」の2曲をつないで、ディズニーのキャラクターの中で最も禍々しい存在といえる、悪魔たちのボス“チェルナボーグ”が饗宴を繰り広げる姿と、逆に荘厳な雰囲気の中を巡礼者たちが列をなして歩き、夜が明けていく神々しい光景が描かれていく。

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