『花束みたいな恋をした』はなぜ観客の心に響くのか 菅田将暉と有村架純の役柄から紐解く

 当初は「現状維持が目標」と言っていた麦は、周囲が就職し着実にキャリアを積んでいるという事実と、一向にステータスの上がらない自分の境遇に対し、次第に焦燥を感じ始める。彼はWEBサイトにイラストを提供するという請負の仕事をしていたが、賃金の交渉をすると「それなら“いらすとや(商用利用可のイラスト提供サイト)”を使う」と言われてしまう。つまり、クリエイティブな分野における彼の市場価値は、その程度だったということだ。

 では、押井守はどうだったのだろうか。彼は大半の日本人はピンとこない存在なのかもしれないが、同時に日本を代表する世界的な巨匠監督であり、業界では知らない者はない。押井伝説といえば、本人曰く「大学時代に映画を年間1000本観ていた」という、にわかに信じ難い話がある。これが真実だとするなら、たいていの映画評論家を凌駕する異常な生活を送っていたといえる。また、ゲームのやり込み方も有名で、ドラクエシリーズを何周もクリアしたあげく、勇者や仲間たちの装備を外して、ひたすらレベルを上げてクリアするという“縛りプレイ”を、世界的な映画監督になった後にも行っていたというのだ。このような狂気を感じさせる話を思い返すと、本作の麦がいかに“普通”であるかということに思い至るのである。

 麦や絹の普通さというのは、「じゃんけんのグー(石)がなぜパー(紙)に負けるのだろう?」という幼少期からの疑問を、おそらくは“自分の固定観念に縛られない自由な発想と感受性の豊かさを示すエピソード”であるかのように捉えているということからも分かる。この考えを共有していることで、二人は互いに相手を素晴らしい人だと思ってしまう。しかし、これはよく考えたら、相手を評価しているようでいて自分を褒め称えているようなものではないか。“非凡な自分と同じ考えをする相手こそ非凡”という思考に陥ってしまっているのである。実際、このようなじゃんけんに対する視点というのは、珍しいものでは全くない。私自身も同じことを思ったことがあるし、これまで生きてきて数人に同じような疑問をぶつけられたことがある。脚本の坂元裕二は、おそらく意図的に、このようなありふれたエピソードを用意しているのではないだろうか。

 本作で見られるのは、“自分のことを特別だと思っていた人間が、じつは凡庸な存在だった”という残酷な事実に、少しずつ気づいていくという積み重ねの物語である。そして、麦のようにクリエイターを志望する者が、生活のために会社で実務的な業務に携わり、次第に創作などから離れてしまい、“パズドラ(ゲームアプリ『パズル&ドラゴンズ』)”くらいしかやる気になれない状況に陥るというのも、非常にありふれた構図だ。それは結局、自分たちが大学時代に心の中で軽蔑していたような人物像そのものになっているということではないのか。

 麦は正社員として働き始めた当初は、余った時間で創作活動や作品鑑賞をすると言っていたが、それすらも投げ捨ててしまっている。彼にとってポップカルチャーというのは、体力を削ってまで取り組むものではなくなってしまっているのだ。彼の鏡像たる絹もまた、結婚してより生活に追われるようになれば、近い状況になるはずである。おそらく彼らは本質的に変化したわけではなく、大学時代はそういうものに割く時間的な余裕と経済的余裕があったというだけではないのか。二人の関係の破綻というのは、そのことに気づいていくという流れと連動しているはずである。

 本作のクライマックスは、二人の恋愛が決定的な終わりを迎えてしまう、ファミレスでのシーンである。主人公たちの視界に現れた、ある若手俳優たちによって演じられるポップカルチャー好きの初々しい学生のカップルは、かつての自分たちそのままの姿である。麦と絹は、互いに涙を流しながらその光景を見つめ、最後の抱擁をすることになる。

 一見、この涙は二人のノスタルジーが刺激されただけのようにも見えるが、前述してきたような段階を踏んで解釈するならば、このファミレスでの光景は、“自分たちがいかにありふれた存在だったか”ということをまざまざと見せつけられる眺めだったのではないか。麦と絹は、自分たちがポップカルチャーによって一般の人とは違う高みに到達しているという幻想の中に暮らしていた。その魔法が決定的に消え去ったのが、このファミレスでの出来事だったように思えるのである。

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