岡田惠和は“小さな幸せ”を大事に育てる 『泣くな、はらちゃん』と重なる『姉ちゃんの恋人』

 「コロナを描くか・描かないか」という点で大きく二分される2020年のドラマ。その中で、何らかのウイルスの脅威があったらしい、現在の日本と似た状況を物語に内包しつつも、そこから“ちょっと先の世界”を描くという独自の距離感を保っていた作品が、岡田惠和脚本×有村架純主演の『姉ちゃんの恋人』(カンテレ・フジテレビ系)だ。

 第1話で手指の消毒をしているカットが挟み込まれたり、客がマスクを争って買っていた時期があったこと、春ごろに自粛が叫ばれていたことなどが会話に盛り込まれたりはしているものの、「アフターコロナ」らしき世界だけに、マスクをしている人はいない。家族や職場などの仲間たちも「密」に集っている。

 SNSやネット掲示板の反応を見ると、そうした描写とコロナ禍真っただ中の現在を照らし合わせて「リアリティが全くない」と憤り、途中で脱落していった視聴者も少なからずいたようだ。

 また、岡田作品ならではの善人だらけの世界のファンタジー感や、家族や仲間の会話やつながり方に、優しさ・温かさを感じて癒される人が多数いる一方で、気恥ずかしさや居心地の悪さを覚えてしまう人がいるのも、やっぱりわかる。

 自分自身、岡田作品を観る度、まるで知人・友人の夫婦や家族などのお宅にお邪魔した際の何気ないやり取りに見る、小さな共同体が持つ共通言語や共通認識に意図せず触れる、のぞき見する、踏み込んでしまうような気恥ずかしさや戸惑い、むず痒さを感じることがある。その結びつきが強く深いほどに、自身の異物感が際立ち、いたたまれなくなることだってある。

 と同時に、アフターコロナの世界では、ますますこうした小さな共同体のつながりが必要になってくるのだろうということも感じてしまう。なぜなら、岡田作品に登場する「優しい人たち」はたいてい、物理的・能力的・精神的に何不自由なく生きてきた人じゃないからだ。たいてい様々な困難や、いくつもの傷を心身に抱えながら生きている人ばかり。そして、彼らが居続けられる理由もまた、そんなつながりがあってのものだ。

 『姉ちゃんの恋人』の桃子(有村)がまさにそうで、高校3年生のときに両親を事故で亡くし、大学進学を断念。3人の弟たちを養うため、ホームセンターで働きつつ、弟たちを幸せにすることを自身の目標としている。

 そんな彼女が恋をする、ホームセンターの配送部で働く青年・真人(林遣都)もまた、暴漢に襲われそうになった恋人を必死で守ろうとした結果、暴行事件に発展。しかし、恋人の偽りの証言により、正当防衛が認められず、前科を負うことになる。

 しかも、恋人を責めることもせずに刑に服した息子が苦しむところを見ていられず、「息子から謝られるの、イヤだな」と漏らしていた父が自殺。そうした過去により、真人は自分が幸せになることを諦めていたのだった。

 客観的事実だけを並べると、どこまでも不運続きの彼らだが、根底に悲しみや怯えを抱えつつも、そこに悲壮感はない。桃子も真人も、むしろ自分自身の幸せを一番に願っていたとしたら、きっと折れてしまっていたことだろう。特に桃子は、弟たちのためという「利他」の明確な目標を持つことが、自身の何よりのエネルギーになっている。

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