<特別編・後編>宮台真司の『攻殻機動隊 SAC_2045』評:人間より優れた倫理を持つ存在と戦う必要があるのか?

【『1984』ルーツの「シンクポル」には倫理の欠如が描かれる】

ダース: それともう1つ。後半に出てくるモチーフが、ジョージ・オーウェルの『1984』(1949年)なんですよ。「これは読んでおけよ」と。これはどう解釈すればいいんですか?

宮台:それは、前回の配信、第3回の「コロナと宗教」(5月1日配信)でも話したことだけど、「シンクポル」って、翻訳書では「思想警察」という訳だけど、「思考警察」のほうが良いと思う。あと、「シンクポルthink pol」のポルだけど、pol(音はpɔl)と書くと「警察」で、よく似た音でpoll(音はpoʊl)と書くと「投票」になる。つまり、英語では「思考警察=思考投票」という語呂合わせになっている。実際、物語の中では、ネットの「思考投票」で「思考警察」が機能するよね。昨今の自粛警察と似ていて、民主主義の腐臭が漂っている。

 昔ジョージ・オーウェルの「シンクポル」は全体主義批判として読まれたけど、神山健治が描く「シンクポル」は、全体主義よりも、劣化した民主主義の全体主義的機能を体現している。結局、みんなが思う方向にしか進まないわけ。戦争や差別を含めて、みんながそれを望めば暴力も許容されるし、みんなが望まなければやめろって話になる。そして、感情が劣化したクズ=「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」だらけの民主主義社会は、全体主義よりもタチが悪い。大ボスを倒せば終わりとはならないからだよ。結局「思考警察=思考投票」が意味するのは「社会からの、倫理の脱落」だよね。

 この「思考警察=思考投票」的な暴挙は、フランス革命の30年余り前に、ジャン・ジャック・ルソーがpitié(他の成員の気持ちが分かり、かつ気に掛かること)がなければ民主主義は全体主義と同じだと見做した時に、既に予言されていたことだ。同時代のアダム・スミスも、同感能力sympathyや仲間感情fellow feelingかなければ、市場で「見えざる手」は働かないとしていたよね。結局、pitiéやsympathyやfellow feelingを支える感情の豊かさがなければ、民主主義も資本主義も回らない。でも、これは制度の故障ではない。ヒューマンの倫理的な劣化のせいなんだ。「思考警察=思考投票」が意味するものが「倫理のなさ」だとは、そのことに当たる。

 僕は、安心・便利・快適を求めるゲノム的志向が、「人間個人が自由に選択できるのが良い」「人間には選択肢が多いほうが良い」という「人間中心主義」と結びつくことが、汎システム化を通じて「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」化という感情の劣化をもたらし、それが倫理を台無しにして民主主義と資本主義を悪夢化すると述べてきた。それを思うと「思考警察=思考投票」を帰結する「人間中心主義」の描写は、神山健治の近現代社会に対する批判的なビジョンを体現し、他方で、ポストヒューマンの肯定的な導入の助走路になっている。むしろ「全ての問題はヒューマンにある」と。

ダース: ネット上でのやりとりで出てくるのが、「選挙で勝ったんだから」とか「多数決でこれだけの人が望んでいるんだから」とか、そういった言説で。民主主義的な多数派になった場合の民主主義が、どういう形になるかっていうと、シンクポルの、「はい、多数決。こいつ悪いヤツ!」っていうのに直結していくわけで。要は、民主主義がどう機能するかっていうのは、一人一人参加している人の倫理観にかかっているっていう前提がすごく大事で、それが抜け落ちたら、民主主義なるものが攻殻機動隊に出てくるような条件に堕すると。

 むしろそれが、前段で話をしてもらったアメリカで起こっていること。アメリカもよく「民主主義国家だ」とか「デモクラッツだ」とか言う人がいるわけだけど、そのデモクラッツの民主主義はどういうものかは、支えている一人一人がどういう人かにも関わってしまうわけで。多数派が「こういう人たちです」ってなった瞬間に、全然ろくでもない制度になる危険性は『1984』を読んでも感じられる。

 『1984』を引用している『攻殻機動隊SAC_2045』に、のっぺらぼうの人たち=シンクポルがいっぱい出てくる。あのビジュアルは、本当に醜悪だけど、倫理の抜け落ちているネトウヨみたいなヤツって、ああいう顔なんかないかと。「あ、こういう人たちだよ!」みたいな(笑)。笑いながら人をバンバン蹴ったりしている人とか、芸能人が不倫したときにクソリプいっぱい飛ばしているようなヤツとかの顔って、「絶対これだ!」って思いましたもん。

宮台:そう。芸能人と不倫したヤクザの男が「シンクポル」で袋叩きにあって、結局それで死んじゃうという描かれ方をしていたけど、比喩というより現状の直接描写だったね。繰り返すと、「思考警察=思考投票」は、民主主義の誤作動ではない。むしろ逆に、民主主義があまりにも正常に作動した結果、人々の感情的な劣化が、そのまま集合的な決定内容の劣化として表れるわけだ。トランプ政権や安倍政権の存在は、民主主義が正常に作動していることの表れなんだね。とすると、問題はいつもヒューマンにこそあることになる。

 そうした「現実描写」が続いた後、ポストヒューマンが出てきて、シーズン1最後に「ポストヒューマンのルーツは倫理だ」と示唆される。これを抽象的な構成として眺めると、実は『ミッドナイト・ゴスペル』とよく似ているんだ。制度の故障ならば直せばいい。全体主義の暴政ならば独裁者を打ち倒せばいい。でもヒューマンの質に問題があって、それが事故というよりも「必然的な汎システム化の、必然的な帰結」なのであれば、もう直せない。ならば、そのことがヒューマンの「死」を通じてボストヒューマンの「生」をもたらすかもしれない。《「もはや何も取り戻せない」「もはや何を言っても無駄足だ」という感覚が、必ずしも否定的ではないものとして描かれる。そこが『攻殻機動隊SAC_2045』の最終2話と、実はモチーフが完全に同じ》と(対談の前半で)述べたのはそのことだよ。

 『ミッドナイト・ゴスペル』は1シーズン8話でフィニッシュだから、「死を受け容れよ」という結論を描けた。他方の『攻殻機動隊SAC_2045』はまだフィニッシュまでは遠くて、これと同じボリュームの第2シーズンがあるはずだ。「全ては必然的な“流れ”だからヒューマンは死を受け容れよ」という結論になるかどうかは第2シーズン次第だね。いずれにせよ「倫理」が主題であることは間違いない。そこは、この十年間のSF系の映画に内外を問わず共通している。このシンクロは、社会意識論的に言えば、「制度の問題ではなく、悪の大ボスの問題でもなく、我々ヒューマンの問題なんだ」という気付きに由来していると断言できる。

ダース: よく宮台さんが言っている、『「すごい人の心が分かるロボット」と「倫理観のない人間」と、どっちと友達になりたいのか』と言うことですよね。例えば人にクソリプばっかり飛ばしているようなヤツと、アトムが横に居た時に、友達になりたいのはアトムじゃんっていう。だっていいヤツだから、アトムは(笑)。なんだったら人のために、死を賭してまで活動するヤツ。でもアトムはロボット。そこには攻殻機動隊でいう「GHOST」があるのかないのかってなった時に、「GHOSTがもしロボットにあるんだったら、GHOSTがない人間よりも……」っていう葛藤が、当然出てくるということですよね。

 『ミッドナイト・ゴスペル』の場合は、根源的には誕生ーー僕がこの人から生まれてきた奇蹟ーーということが、全てのスタート地点であって。そんなすごいことが起こっているんだったら、そこからなにをスタートさせるのか考えなきゃいけないということに自分が気づいているというのが、アニメの中でも、自らが妊娠するっていうシーンも含めて描かれている。そこに『1984』でいう「党」がやってくる(笑)。そして拘束されるという。だからクランシーは『1984』のスミス[小説の主人公]でいったら、あの後クランシーは何事もなかったかのように最初のクランシーに戻っている可能性があるっていう(笑)。そういった意味では、『ミッドナイト・ゴスペル』も『攻殻機動隊SAC_2045』も『1984』と絡めて考えて見えてくる。すごくストンと腑に落ちる気がします。

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