劇場版『Fate/stay night [HF]』が問いかける“罪”との向き合い方 映画独自のアレンジの妙

花見の前に足を止める桜の罪の重さ

 そして、映画となった『HF』は、その尊さだけでは終わらない。その先にある罪と向き合うことを忘れていない。

 愛する人と共に生きるという決断の後には、待ち受ける日常がある。それが罪人であるのなら、安易な死の方が楽かもしれない、罪と向き合う日常が待ち受ける。

 『HF』3部作の最終章である本作において、死は必ずしも絶望をイメージしない。冒頭、士郎は友人であり桜の兄である慎二の死体を見つける。その死に顔は安らかだ。劣等感にさいなまされ続けた彼は死によってようやく解放されたのかもしれない。

 第一のルート『Fate』ではヒロインだったセイバーオルタの死にざまにもどこか解放感がある。原作ゲームでは止めを刺さない選択肢を選ぶと「シロウ。初めて、貴方を憎んだ」というセリフとともにバッドエンドを迎えることになるのだが、映画の主人公は躊躇なく刃を突き刺す。

 死が解放であるなら、生は苦しみだ。にもかかわらず本作は生きることを肯定する。

 須藤友徳監督は、この最終章を「罪を背負った上で、それでも日常に回帰する話」と位置付ける。

「誰かと話しているだけで、世界中から『償え』と責められている気がする」

 これは原作ゲームにある一文だ(映画とは異なる結末「ノーマルエンド」に出てくる一文)。これがヒロインの桜が迎えた日常なのだ。作中、士郎は桜に向かって「罪の所在も罰の重さも、俺には判らない。けど守る。これから桜に問われる全てのことから桜を守る」と言う。

 士郎の日常もまた過酷なものになる。それはある意味、正義の弾圧から桜を守るということであり、かつての自分の理想との絶え間ない逡巡に違いない。

 本作の結末で、皆と花見に向かう桜が、花見会場に入る前に一瞬足を止めたのはなぜだろうか。自分にはあのような祝福される場に躊躇なく入る資格があるだろうか。桜はそう考えたのかもしれない。花見会場に向かう足が重くなり、その手前で止まるという芝居に、桜が感じる罪の重さが宿っている。花見中の人々の幸せな表情さえ、桜には「償え」という責め苦に感じられるかもしれない。

 だから、桜は士郎と手をつなぐ。どんなことがあっても守ると誓ってくれた士郎となら罪に向き合える。だから、映画のラストカットは士郎と桜が手をつないで花見に向かうカットとなったのだろう。

 原作に3つのルートがあると先に書いたが、『HF』にはさらに2通りのエンディングがある。本作が選択したのはトゥルーエンドと呼ばれる、ハッピーエンドのバージョンなのだが、花見開場前で立ち止まる桜の姿に、もう一つの苦々しい重みを残した結末、ノーマルエンドの精神も受け継いでいるように筆者には思える。原作のトゥルーエンドでは、より大円団のハッピーエンドのイメージが強いイラストが添えられる。一方、ノーマルエンドは帰らぬ人となった士郎を、桜が年老いても待ち続けるという結末となり、桜の犯した罪の重さがより実感させられる。映画では桜が花見の前に足を止めるという芝居に、一筋縄ではいかないこれからの苦難を想像させる。このアレンジは大変見事だった。長くTYPE-MOONの映像作品にかかわる須藤友徳監督の理解の深さをうかがわせる。

 罪と向き合う日常は苦しみに溢れているけど、それでも生きることを肯定する。苦難に満ちた日常を乗り越えるために愛する人の手を取る勇気。主人公たちが苦難の末に勝ち得たのはそんなささやかな力なのだ。

■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。

■公開情報
『劇場版「Fate/stay night [Heaven’s Feel]」III.spring song』
全国公開中
声の出演:杉山紀彰、下屋則子、川澄綾子、植田佳奈、門脇舞以、伊藤美紀、中田譲治、津嘉山正種、浅川悠、稲田徹
キャラクターデザイン:須藤友徳・碇谷敦・田畑壽之
脚本:桧山彬(ufotable)
美術監督:衛藤功二
撮影監督:寺尾優一
3D監督:西脇一樹
色彩設計:松岡美佳
編集:神野学
音楽:梶浦由記
主題歌:Aimer
制作プロデューサー:近藤光
アニメーション制作:ufotable
配給:アニプレックス
(c)TYPE-MOON・ufotable・FSNPC
公式サイト:http://www.fate-sn.com/
公式Twitter:@Fate_SN_Anime

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