すべての登場人物は世界のどこかの誰かかもしれない 『ふたりのJ・T・リロイ』が問いかけるもの

 かつて『パーソナル・ショッパー』(2016年)で「別人になりたいと願っていた女」を演じたクリステン・スチュワートが、本作『ふたりのJ・T・リロイ ベストセラー作家の裏の裏』では「別人になることを強いられる女」を演じる。2000年に『サラ、神に背いた少年』で鮮烈にデビューした作家ローラ・アルバートが作り上げたもう一人の「作家」、それがJ・T・リロイ(クリステン・スチュワート)である。娼婦の母親を持ち、自らも女装し男娼として生きる自伝的な小説の作家J・Tは、たちまちマドンナ、ガス・ヴァン・サント、ウィノナ・ライダーなど、名だたるセレブたちを虜にしていく。

 アルバート自身の語りと周囲の人々の録音で構成されたドキュメンタリー映画『作家、本当のJ・T・リロイ』(2016年)では、ほとんど見えてこなかったJ・Tを演じたサヴァンナ自身の心情と素顔が、彼女視点のフィクション映画の形態をとる本作によって浮かび上がる。当初たった50ドルのお小遣い稼ぎのためでしかなかったJ・Tを演じることが、彼女にとっていかなる意味を帯びていったのか――。その謎が明らかになるとき、私たちはもう、わざとらしく低くしゃがれた女の声を、不自然に浮いた奇抜なウィッグをのせた女の頭を、その滑稽さに笑ってしまうことも、有り得ないと一蹴してしまうことも、きっとできなくなっているだろう。

 とあるインタビューで「女性のあなたが、少年として創作したことについては?」と問われたアルバートは、「トランスジェンダーというより流動的ジェンダー(gender fluid。自分の意識として男性と女性の間を揺れ動く状態)だった」(参照:https://wired.jp/special/2017/jtleroy/)と答えている。幼い頃、女性の身体の変化が恐ろしくなった少女は、少年になりたがった。そうして少年として相談窓口に電話をかけることが、癒しのためのセラピー的な行為となり、創作へと繋がっていく。人は365日24時間、自分は自分でしかなく、自分からは逃れられない。しかし自分であり続けること、自分と向き合い続けることで、自分を保っていられなくなるときもある。アルバートの場合、それは女性性への嫌悪とも重なり、性別さえ異なる別人格であったが、自分ではない誰かとして人生を語ることが、彼女にとって自分を保つ唯一の手段だったのかもしれない。アルバートが作り上げた別人格の男性J・Tは、彼女自身の女性性が融合されたかのようにジェンダー・フリュイドの人物である。そんな自伝の映画化『サラ、いつわりの祈り』(2004年)では、母親のランジェリーを身につけ真っ赤な口紅を塗ったJ・Tの、性の狭間を揺れ動く姿も描かれている。

 J・Tを演じたサヴァンナは容姿も中性的であり、男性の恋人ショーン(ケルヴィン・ハリソン・Jr.)がいながら、新たに出会った女性エヴァ(ダイアン・クルーガー)とも関係を持ち、男性である架空の自分と女性である本来の自分を混合していく。クリステン・スチュワート自身、私生活で女性とも男性ともラブ・ロマンスが報道され、マニッシュからフェミニンまで幅広いヘアメイクやファッションをこなすが、スチュワート自身がクィアなスター性を携えているからこそ、このサヴァンナという役柄を見事に演じきっている。『パーソナル・ショッパー』や『アクトレス 〜女たちの舞台〜』(2014年) などのアサイヤス映画で、セレブのかたわらに存在する何者でもない人物を演じてきたクリステンにとって、本作のJ・Tもその系譜にあると言えるだろう。スチュワートが見せるサヴァンナとしての短髪でカジュアルな姿と、J・Tとしての奇抜で派手な姿のバリエーションは、本作の最たる見どころの一つである。

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