2020年新春特別企画
“映画館でかけるべき映画”を作り手たちは考えないといけないーー三宅唱が2010年代を振り返る
「演出」が民主化した
――2010年代の大きな動きのひとつとして、ドキュメンタリー映画の躍進があるように個人的には思っていて。その頃から、震災に関連したものに限らず、今、監督が言われたように、自分たちの日常と地続きのドキュメンタリー映画が、数多く生まれてきたように思います。
三宅:そうかもしれないですね。カメラの機動力が上がったし、誰でもカメラを回せるようになりました。ハード面の民主化と、世の中の状況がリンクしたんでしょうね。僕もiPhoneを使って、ビデオ日記というごく個人的なものを2014年から『無言日記』としてwebで継続的に発表し始めるようになりましたし、同じ年に音楽ドキュメンタリー『THE COCKPIT』(2014)を撮りました。
――ドキュメンタリーというと、以前はジャーナリズム的なイメージがありましたが、三宅監督の『THE COCKPIT』も含めて、ここ最近のものは、そういうものとはちょっとテイストが違いますよね。
三宅:もちろん、ジャーナリスティックにとにかく記録ファーストで作られるべきタイミングもあると思うんですが、僕が挙げたドキュメンタリーは、乱暴にまとめると、ただ記録するためだけにカメラを使っている作品ではない気がします。カメラを回し始める前に膨大なコミュニケーションの時間があるというか、カメラという道具を介してたくさんのやりとりが生まれている。カメラがなければ生まれないコミュニケーションの力に自覚的であるというか。
――なるほど。面白いですね。
三宅:カメラを通して私とあなたはどういう関係を築くことができるのかを探っている感じ。そのコミュニケーションのあり様が要するに「演出」なのではないか、と思っています。
――さらに、2010年代の大きな動きとして、スマホの普及により、誰もが気軽に動画を撮ることができるようになったことがあると思います。それは「撮る」だけではなく、「撮られる」ことも含めて。
三宅:はい、演出は相互的なものだと思います。誰もがカメラを使えるようになって、アプリで誰もが映像加工も簡単にできるようになったとか、そういう表面上の進化だけに制限して捉えるのではなくて、誰もがカメラを持って人とコミュニケーションできるようになった、言い換えると誰もが演出できるようになった、もっと言えば「演出しあえる」ようになったと捉える方が、面白い時代になるんじゃないかと。ハードが民主化したことによって「演出」が民主化した、という物語を立てた方が僕は断然面白いです。カメラの後ろに立てるのってかつては選ばれた人間だけで、そのせいで「監督」という立場が権威化してしまいましたが、その物語はもう終わり、と。今や、誰でもカメラの後ろに立てるし、誰でもカメラの前に立てるようになったわけで。それと関係しているのかはわからないですけど、ここ数年僕が関心を持っているのは、俳優が監督している映画です。
――面白いですね。たとえば、どんな映画でしょう?
三宅:イーストウッドはもちろんですが、ここ数年で言えばブラッドリー・クーパーが監督した『アリー/スター誕生』(2018)、グレタ・ガーウィグが監督した『レディ・バード』(2017)、ポール・ダノが監督した『ワイルドライフ』(2018)も面白かったですね。ごく最近だとルイ・ガレルの『パリの恋人たち』(2018)とか。特に『アリー/スター誕生』は、役者が監督するがゆえの潔さみたいなものをものすごく感じました。
――しかも、『アリー/スター誕生』の場合、監督をしながら、本人もメインキャストとして出演しているという。
三宅:レディ・ガガとブラッドリー・クーパーという、この2人にカメラを向けてさえいればいいんだ、それだけで映画を作るんだという感じ。遡れば、ジョン・カサヴェテスとか、いろいろいます。
――異業種の監督進出という文脈ではなく、「撮られる側」の人間が、「撮る側」に回ったことによって生まれる面白さということですよね。
三宅:そうです。 今まで手の届かなった痒いところに彼らの手なら届くんじゃないか、みたいな。あるいは、新しいところが痒くなる感じ。