「コンテンツ立国」を目指すためには必須? デジタル時代の日本における、映像アーカイブの重要性
伊藤智彦監督、野崎まど脚本による『HELLO WORLD』は変わったSF映画だった。過去改変に挑む「タイムループもの」のようだが違う。男子高校生の主人公の前に10年後の成長した自分が現れるが、彼は未来からやってきたのではない。むしろ10年後の彼が現在であり、高校生の主人公は、彼が暮らす街も他者も含めて、全てが膨大なデータから精巧に作り出された「過去の再現」なのだ。本作のユニークさは、過去のデータに過ぎない存在が、現実の本人を超えて意思を持って行動し、その行動が現実の本人をも変えていく。過去のデータが現実を変えていくのだ。言うなればこれは「アーカイブもの」のSF映画だ。
本作はアーカイブを主題にした作品として画期的だと筆者は思う。アーカイブとは単純に過去を保存するだけではない、過去と出会い、未来を作るアクティブな行為なのだとこの物語は教えてくれる。
本稿は『HELLO WORLD』についてではなく、アーカイブという行為の重要性について書く。アーカイブとは過去の作品や書類を収集・保存し、利活用することである。あらゆる新しい表現は、過去の参照なしには生まれない。アーカイブとは過去ばかり見る後ろ向きの態度ではない。それは未来への積極的投資だ。
日本の映像業界はこの分野に関して大きく立ち遅れていた。遅まきながらアーカイブの重要性の機運は高まりつつあるが、コンテンツ立国を目指す上で当然整備されていなければならないものが未整備のままここまで来てしまったことは実に残念だ。
ここでは、日本映画のアーカイブの歴史を簡単に振り返るとともに、映像アーカイブの課題と大切さ、そして、デジタル時代のアーカイブの課題などについて書いてみたい。
なぜアーカイブはなくてはならないか
大事なことなので2回書くが、アーカイブは未来への積極的投資だ。フレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』にこんなシーンがある。
ニューヨーク公共図書館(NYPL)では、雑誌の切り抜きや何気ないスナップ写真や報道写真など、あらゆる写真を収蔵したピクチャーコレクションがあるのだが、そこで働く図書館員が校外学習に来た学生たちにコレクションの利用方法を説明する中でこう言う。
「アンディ・ウォーホルはここから(アイデア)をたくさん盗んでいったんだ」
稀代の革命的アーティストのウォーホルは過去のアーカイブからインスピレーションを得ていた。アーカイブが未来の新しい表現を生む土壌となったのだ。この映画の記事を書くにあたり、ニューヨーク公共図書館渉外担当役員のキャリー・ウェルチさんに取材(参照:図書館は単なる無料貸本屋なのか? ニューヨーク公共図書館が貫く“民主主義”とは)をする機会があったのだが、ウォーホル以外にも、多くのアーティストたちがこの図書館を利用しているとのことだった。映画人ではスパイク・リーは学生時代に足繁く通っていたそうだし、演劇や映像資料、方言やアクセントを収めた音声資料も豊富で俳優が役作りのために訪れることも多いという。キャリーさんは、ロビン・ウィリアムズやアル・パチーノといった名優が役作りのために利用したこともあると語っていた。
アーカイブが大切なのは過去の名作を観られるようになるからだけではない。映画も100年以上の歴史がすでにあり、日本でも数多くの映画が制作されてきた。その1つ1つが大切な文化遺産であること言うまでもなく、それらが未来の新しい表現を生み出す礎となりうるものだ。アーカイブは、新しい才能を育むためにも必要なことなのだ。
新しいものを生み出すためのアーカイブという点では、過去の作品に新たなスポットがあたることで新しい価値を生む場合がある。映画史の中には公開当時、評判の芳しくなくとも、後に名作と評されるようになった作品はいくつもあるが、公開後フィルムが破棄されていたら、後に評価が覆る可能性すらなくなる。
日本を代表するフィルム・アーキビストである、国立映画アーカイブ主任研究員の岡田秀則氏は自著『映画という《物体X》 フィルム・アーカイブの眼で見た映画』で、「すべての映画は平等である」(P21)と語っている。どんな名作も駄作も、物体としては等しくフィルムである。全ての映画は平等であるとは一義的にはそういう意味だろう。しかし、公開時点で傑作/駄作の優劣をつけられてしまったとしても、それがアーカイブされているなら、後にその評価が逆転することだってあり得る。そういう観点でも映画は平等だ。いや、アーカイブという行為が映画を平等にしてくれていると言うべきなのだ。