伊藤健太郎×玉城ティナ『惡の華』は誰もが共感できる“青春映画”に 浮かび上がる名作との共通項

 「あの頃、こんなことを考えていたな……」と、懐かしく中学時代や高校時代をふと振り返るとき、恥ずかしさや切なさなどが混ぜこぜになった複雑な気持ちに襲われることが、誰でもあるのではないだろうか。

 漫画家・押見修造による同名の代表作を実写映画化した、本作『惡の華』は、ときに「中二病」「黒歴史」などとも揶揄されるような、若者に訪れる不安定な自意識や個性的な趣向、そしてそのときに感じた燃え上がる炎のように熱い想いを、共感を持って描いていく映画作品である。

 本作が描くのは、一見すると普通の感覚とは違った、屈折した学生の“イタい”物語だ。しかし、ここで映し出されていく主人公の青春は、本質的な意味で、多くの人々の学生時代の体験と重なるような普遍的魅力をも持っている。つまり、じつは誰もが共感できる、まっすぐで純粋な“青春映画”になっているのだ。ここでは、そんな本作がなぜ深い感動を与えるような映画になっているのかということを考察していきたい。

 日本の国土の7割以上は山地だ。日本の多くの子どもたちが、そんな山々に囲まれた地方都市の一般家庭に生まれる。そしてそんな閉塞感のなかに大都市発の支社やチェーン店が並ぶ独特な風景を目にしながら、親や教師という身近な大人と接して育っていく。本作もまた、そのような舞台からスタートする。

 中学生といえば、自我が急速に目覚める時期でもある。自分の育った環境に順応し、身近な大人たちと同じような人生を送っていくことに対して、疑問や反感を覚える学生は少なくない。人によってその感情の表現方法は異なり、ある者はグレて反社会的行動に出たり、ロックやラップなどの反逆的メッセージに耽溺したり、学校をサボって海を見に行ったりするわけである。

 本作『惡の華』の主人公である、伊藤健太郎が演じる春日高男は、“文学作品を読む”という、比較的地味な方法で、“教室の密かな反逆者”となっている学生だ。ボードレールの詩『惡の華』や、バタイユの小説『眼球譚』、それから澁澤龍彦のエッセイなどを読み、内心で「この町でこんな作品を理解できるのは自分くらいだろう」という優越感を心の支えにして、退屈な決まりきった日常をやり過ごしている。読書という行為は他者が見れば地味な行為に過ぎないが、本人にとってーーとくに物事の道理を考え始める年頃には、人生に影響を及ぼすような衝撃だったりする。

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